序
どれほど文明が進歩しても人の心に欲がある限り、悪魔が糊口を失うことはない。
細い尻尾に尖った耳を持っていなくても、悪魔という奴は魂を奪わんと虎視眈々と狙っているのである。
二十一世紀に相応しい様相をして。
だがまれには欲のない人間に取り憑いてしまう悪魔もいるのだった。
東京は本郷大横町通りに建つ小さな古本屋「本郷懐古(かいこ)堂」からこの物語は始まる。
1
それは、とある暖かな春の夜のこと。
開け放したシャッターから花の香のする風が吹き込んでくる。
ずらりと並んだ古本のカビ臭さもその香りが吹き消してくれている。
リンリンとベルが鳴り、レジの前の椅子に座り古本をためつすがめつしていた大野智明(ひろあき)は、売り物の本と同じくらいアンティークな目の前のダイヤル式黒電話に手を伸ばした。
「はい、本郷懐古堂です」
なるべく威厳を保った低い声を出し、額に落ちていた長い前髪を掻きあげる。まるで声変わりしていないかのような高い声のため、電話に出るたびに「お父さんを出して」と言われるのが常だ。骨盤骨折で入院中の叔父に代わって店を預かっている責任上、顧客を失うような目には遭いたくない。それはもちろんバイト代を減らされるからだった。
「買い取りですか、それとも本をお探しですか?」
「なに気取った声を出しているんだよ」
カラカラと明るい笑い声とともに聞き慣れた声が届いた。
「智明、俺だよ、正直(まさなお)だ」
かけてきたのは羽山(はやま)正直、智明の幼馴染みで兄貴分だった大の親友だ。
「なんですか、正直さん?」
正直の話とは、半年ほど前に大往生を遂げた祖父の財産整理がそろそろ終わるので、
「祖父(じい)さんの最後の厄介ものを整理してるんだ。それで……」
問題なのが羽山邸の離れに残されている大量の書物だ。
「それを処分したいんだけど、智明、手伝ってくれないか?」
羽山邸には先代・先々代が長年にわたって収集した本がある。その鑑定となれば古本屋冥利に尽きるというものだ。
「でも知ってるでしょう、今、叔父さんは入院中で」
「ああ、さっき見舞いに行って了解を取ったよ。智明だってけっこう、今まで店番とかしてたから大丈夫だと言われたぞ?」
「うーん……」
叔父の命令には逆らえない。叔父が約束したバイト代は、予備校の授業料なのだ。
そう、智明はセンター試験に失敗し、この春からしがない浪人生の身だった。
小説家志望だから目指したのはもちろん文学部。国立と私立、どちらも玉砕だった……。
暗くなりかけた気持ちを慌てて振り払う。
「判りました、出来るだけのことはしますよ」
電話を切ると智明は早々に店を閉めることにした。明日は大量の古本を棚から下ろさねばならないに違いなく、体力は温存したほうがいい。
ガラスの引き戸に手を掛けると、向かい側の商店街に誰かが立っているのが見えた。
もうそろそろ夜も八時を回って、この辺りはほとんどの店のシャッターが下りている。ぼんやりとした外灯の下、それは智明よりも頭一つ分も高そうな青年とわかった。
いつのまにか雨が降り出していて、ただでさえ寂しい光景の中、青年は濡れそぼったまま立ち尽くしていた。スタジャンを羽織り、ジーンズにスニーカーだ。年は自分と同じくらいかな、と智明は予想する。
(塾帰りかな? 受験生は大変だものなー)
同病相憐れむだ。
ひょっとしてうちに参考書でも買いに来たのかな、と手を止める。いや、それともエロ本かも。
「あのー、もう、お店、閉めるよ? 買うなら早く」
道路の向こう側に声をかけてみた。
すると青年はふいにこちらへと顔を向ける。
「えっ?」
被っている野球帽の下から真っ赤な瞳が見えたような気がして、はっと智明は目を凝らす。
次の瞬間、青年の姿は消えていた。
「ええっ……まさか」
通りに飛び出して左右へと顔を向けたが、人影はどこにもなかった。
「まさかね……人が消えるなんて」
気のせいだったのだろう、と智明は納得して店に戻った。
「ま、いいや」
高校生相手に参考書を売ろうなんてケチなことを考えたもんだ。
明日はさぞや素晴らしい本に巡り会えるに違いない。掘り出し物を見つければ叔父もバイト代を弾んでくれるはずだ。
鼻歌を歌いながら、智明はシャッターを下ろした。
埃まみれになるであろうことを予測し、智明は擦り切れたジーンズに着古したトレーナーを着て、下宿屋「弓町(ゆみちょう)ハウス」の玄関に立った。
智明の実家は三代続く下宿屋なのだ。戦後建て直したとはいえ、すでに築五十年近い木造家屋で、昔の映画に出てくるようなたたずまいだ。がたぴしと鳴る引き戸、広い三和土、木製の大きな下駄箱は典型的な下宿屋の玄関と言っていい。
ここから羽山邸まではどんなにゆっくり歩いても七分だ。
余裕の表情で靴を履き、一歩前に出た瞬間、思いっきりつんのめった。
「ええっ?」
なぜか左右のスニーカーの紐が絡まっていた。ぶつぶつ言いながら捩れている紐を解き、きちんと結び直す。
「行ってきます」
声をかけると勢いよく引き戸を開ける。
と、いきなり戸が外れて智明に倒れ掛かってきた。
「な、なんだよっ、ちょっと、お袋ー、蝋でも塗っとけってー」
なんとか両手を広げて受け止めると嵌め戻すのも面倒で、靴箱に立てかけた。
「たくもう……」
敷居をまたいで外へ出た瞬間、足元を黒いものが横切った。
「えっ」
片足を宙に浮かせたまま、黒いものが走っていった先を見る。「にゃあ」という声が残ったような気がして、智明は胸を撫で下ろす。
「猫だったんだ、危なく踏むところだった……」
それにしても、と開いたままの玄関を振り返る。
「小太郎(こたろう)の奴……縄張りぐらい自分で守れって!」
首を巡らして飼い猫の小太郎の姿を求めた。
今年五歳になる白に茶色の斑点の駄猫だが、なかなか喧嘩っぱやい。そのせいでいつも実家の辺りによその猫の影はないのだ。靴を履いているとき、太った体を揺すりながら二階へ上っていく後姿を目撃している。
舌を鳴らして呼んでみたが、いつもの「にゃおーん(いってらっしゃい)」という声は玄関先にある二階への階段からは降ってこなかった。
「また下宿人(ひとさま)の部屋で盗み食いしているんじゃないだろうな……」
まあいいかと数歩歩いた瞬間、向かいの家の軒先に大きな鳥(からす)がとまっていることに気づいた。つやつやの黒い羽に黒く光る太い嘴。威嚇するように両の翼を広げる。
「うわっ」
一瞬驚いたが「なんだ、烏か」とまた胸を撫で下ろす。
やっと出発して家の前の狭い路地を端まで歩き、大横町通りのほうへと角を折れた。
ちらりと肩越しに振り返ると、大きい黒犬が道の真ん中に座り、こちらを見ている。
「あれ?」
次の瞬間、もう犬の姿はなかった。
「なんだったんだろう?」
首を傾げながらも智明は目的地を目指すことにした。
すぐに右へと折れ、一方通行の裏通りを数分歩くと、鬱蒼とした大木が目に入る。
羽山邸だ。
二代にわたって当主が旧帝大医学部教授の椅子を拝したという、地元の名士・羽山家の邸宅だ。三代目はT大と名を変えた大学のやはり教授に就任している。
その羽山邸は高い煉瓦塀に囲まれ、チムニーのついた洋館だ。樹齢百年といった桜や銀杏、欅の大木が広い庭に植わっている。黒い風見鶏がてっぺんに舞う屋根は緑青の浮き出た青いうろこ瓦、壁はスタッコ仕上げ。ごつごつとした表面には蔦が絡まっている。色とりどりのガラスの嵌めこまれた丸窓に、玄関を挟んだ両翼には張り出し窓。
実際には鬱蒼とした木立に遮られ、門からは洋館の一部しか見えないのだが。
庭の樹木からは昨夜の嵐に打たれた葉っぱがはらはらと塀を越えて落ち、濡れた歩道に大量に散らばっている。近所の主婦が文句を言いながら塵取りと箒を動かしている。
「まったくもう、外を掃かないんだから、あのうちは……ただでさえ薄気味悪いのに」
門の前で呼び鈴を鳴らしている智明に聞こえよがしの悪口が届く。
(ま、言われるのも仕方がない……僕だって小さい頃、ここにボールを入っちゃったとき
なんかは命懸けで取りに入ったもんだからな)
小学生の頃、ちびでやせっぽちの智明は苛められっ子だった。それゆえ、一人で本を読んで過ごすことの多い内向的な少年に育ち、それがまた周囲から浮いて苛められるという悪循環。たまにキャッチボールなどの仲間に入れてもらって遊んでいても、ボールが羽山邸に入ると、必ず取りに行かされたものだ。「行かないともう遊んでやらないぞ」と脅かされ、泣く泣く塀の割れ目から潜り込んだ……。
羽山正直と知り合ったのも、それがきっかけだった。恐怖で声も出せずに木陰に立ち尽くしている智明を、たまたま遊びに来ていた正直が発見した。事情を聞くとすぐボールを捜し出してくれた。そして外で待ち受けている悪ガキどもを「こらあ!」と叱ってくれ……。
恐怖を誘うのは日の光を遮る鬱然とした木立と荒れはてた印象の洋館だけではない。
もっと恐ろしいものがこの敷地にはあるのだ。
それからもどうしてもボールが見つからない時には少し離れたところに住んでいる正直の家まで行き、また一緒に捜してもらったものだった……。
(ほんと、幽霊でも住んでいそうだよ……)
重い鉄の扉がぎーっと軋み、気のせいか智明の背中に冷たいものが走った。
「いらっしゃーい、智明!」
甲高い声とともに門から顔を出したのは、ポニーテールの少女だった。つぶらで大きな眼、きりっとした太い眉、大輪の花のような明るい笑顔に、辺りの暗い空気が一気に消し飛んだ。
「菜摘(なつみ)ちゃん!」
屈託のない笑顔で迎えたのは正直の妹、菜摘だ。元気な女子高生で、小さい頃はやはり智明をイジメから守ってくれていた。おかげで正直と同様に智明はこのお転婆娘に頭が上がらない。
「なんか、緊張してる? ひょっとしてトラウマかなー?」
ちょっぴり心の中を言い当てられ、うへっとなりながらも「違うよ!」と反論する。
「いいって。ここはみんなが怖がるお化け屋敷だもんね」
あっけらかんと言ってのけ、菜摘は智明を招き入れた。二つ年下なのだが、ほとんど背の高さは同じで、多分追い抜かれるのだろうと智明は覚悟している。
(また小さい頃と同じようにちびって言われるようになるんだろうな……)
カッターシャツにジーンズは、スタイルのいい身体には似合っているのだが、あまり女の子らしいとは言えない。
「兄貴はあっちで待ってるよ」
菜摘は先に立って母屋ではなく、庭にある煉瓦造りの円筒形の建物へと歩いていく。細長く、高さは普通の住宅の三階分はあり、窓がほとんどない。屋根は赤いうろこ瓦で、まさに牧場に建つサイロといってもおかしくない。
「おお、来たか」
半袖白衣に焦げ茶のチノパンを穿いた大きな男が扉の前で立っていた。羽山正直である。堂々たる逞しい体躯で、これは羽山家一代目・二代目に備わっていなかったものだ。大柄な女性との結婚でもたらされたという評判である。短く切り揃えた髪の下の太い眉毛にぎょろりとした眼、彫りの深い顔、こちらは羽山家当主代々に譲り伝えられている。
半袖白衣を着ているのは、獣医学科に通っている学生だからだ。
「さ、こっちだ」
正直は鉄製の大きな鍵を取り出し、鍵穴に嵌めてがちゃりと回す。鉄で出来た分厚い扉が悲鳴を上げて開いた。
「ううっ、家族の俺でさえ、ここはあんまり好きじゃないんだよな」
正直はぶつぶつ言いながらスィッチを入れる。
「そーお? 面白いじゃん」
菜摘は明るい声で応じながら中に入った。
「菜摘にはかなわないなあ……」
三十畳ほどの土間には幾つもの木製展示台が並んでいる。
剥き出しのレンガの壁にはところどころ灯が点いていて、展示物を照らすようになっている。
ここは羽山家の私設博物館なのだ。
これこそが小さい頃からの恐怖の源である。
ぼんやりとした光の中に異形のものが姿を現した。
それは展示台の大小さまざまなガラス瓶だ。ジャムの壺大から、巨大な水槽ほどのものまで。
一番数が多いのは、縦長で衣装ケースほどの大きさだろうか。それが数十はある。
中には服の仮縫いなどに使われるような胴に肘や膝までだけがついた人体模型。
だがその人体模型(トルソー)が着ているのは洋服などではない。
赤や青、緑で描かれた龍や桜吹雪、羽を広げた鳳凰、鶴と亀、象に乗った観音様、着物の片肌を脱ぎ乳房を露わにした浮世絵美人など……。
そう、トルソーの纏っているのは刺青、俗に言う倶利伽羅(くりから)紋紋だ。
口さがない人々が陰で羽山邸を「刺青屋敷」または「倶利伽羅邸」と呼ぶ所以である。
羽山家の人々は代々鷹揚でそういった陰口にはまるで無頓着なのであるが。
「曾(ひい)祖父(じい)さんは趣味が変わってたからな」
祖先の言い訳をしつつ、正直は薄気味悪そうに眺めている智明を振り返った。
羽山家一代目当主の趣味は本を集めることに加え、刺青の収集だった。
一代目が解剖学教室の教授だった明治から大正期は、まだ異状死体などが市井の病院で解剖されることも多く、ずいぶんと犯罪者やら変死者やらの検死に立ち会ったらしかった。
明治時代には刺青を禁止した条例が発令されているが、何しろ「彫って六ヶ月経てば時効」だったため、よほどのことでなければ罰せられない。それゆえ刺青を入れる気っ風のいい江戸っ子たちはあとを絶たなかったのだ。
羽山邸から歩いて数分、本郷りと春日通りの交点に、有名な「かねやす」という創業ン百年の雑貨屋が今もある。江戸の頃はまだ人家が少なく、「本郷もかねやすまでが江戸のうち」と言われていたくらいだ。しかし明治に入ってからは帝都の中心部であり神田や向島、木場にだって近い。痩せ我慢をするのがもともと好きな江戸っ子で、刺青に熱を上げる男衆には事欠かない土地柄でもあった。
犯罪者や変死者に刺青者が多かった、そして本郷に刺青者が多く住んでいた、というわけではないが、羽山家初代当主が眼にする機会が多かったことは事実である。
それもあって曾祖父は刺青の美しさに目覚めたのだそうだ、とは正直の弁。
「なんかさ、日本古来の芸術だとか言ってたらしいよ」
「単に変態だったんじゃない?」
菜摘があっけらかんと言い放つ。
「だいたい、ガッコの先生になる奴なんて、変わったのが多いし。うちの高校の先生なんか、みんな変な奴ばっかだよ?」
菜摘の意見に智明は苦笑する。
「いや、変態は言い過ぎかも……」
ここで賛成したら、菜摘と正直は変態の子孫になってしまう!
だが遺族に許可をもらってのこととはいえ、確かにご先祖様はずいぶんと大胆なことをしたものだ。
刺青の収集なんて。
つまりホルマリンに浸かっているのはもちろん本物の人間の……。
そこまで考え、智明はぶるっと身体を震わせる。
「霊能力者」というほどではないが、他人(ひと)よりも超自然的な何かを感じ取りやすい体質だ。
今も襟足の毛がちくちくと逆立つのを感じる。
「ここには絶対、何かがいるよ!」
怯えたような智明の声を正直は気にせず否定する。
「高等教育を受けたものの言うことじゃないよ、霊とかオカルトとかさ。星占いだってインチキなんだぜ?」
「兄ちゃんは科学信奉者だもんね」
呆れて菜摘が口を出す。
「智明は失せもの探しとか確かに得意だったじゃない。勘が鋭いんだよ。つーか、兄ちゃんが鈍感なのかな?」
「俺のどこが鈍感だよ」
ぶつぶつ言う正直の腕を智明は取る。兄妹喧嘩なら別の場所でゆっくりやってほしい。
「もういいよ、早く、本のところへ行こうよ!」
「わかったわかった」
壁際にある螺旋階段へと三人は足を進める。二階から上に目的の本が収められているのだった。
鉄製の階段を上がると、そこはまさに図書館の書庫そのものだ。
簡単な仕切りで幾つかのコーナーに分けられ、そこに書棚がずらりと置かれている。
荒削りの木製の書棚には分厚い革表紙の本が並べられている。天金と言って、上の部分に金が塗ってある立派な本も多い。
「こっちは曾祖父さんがヨーロッパに留学してたとき集めたオカルト関係の本だ。ほんと、趣味悪いよな。医者のすることじゃないぜ?」
正直の指し示すコーナーへと智明は入ってみた。
「いや、曾お祖父さんが向こうへ行ってたのって、今から百年ぐらい前でしょう? オカルトはその当時は最新科学だったんだよ。ホームズを書いたコナン・ドイルや心理学者のユングもハマったんだから」
純文学だけでなくミステリーでも活字ならなんでも読む智明はもちろんホームズファンだ。これぐらいのことは知っている。
ふーんと正直は気のない返事をし、手を伸ばして近くの本を取った。
「これは祖父さんが集めた医学書だ。意味ないんだよね、古い医学書ってさ。もう時代遅れの医学情報だからね」
やれやれとまた書棚に戻した。
「祖母(ばあ)さんはどっかの大学の図書館に寄付したらって言ってたんだけどね。今どきどこも受け取ってくれないらしい。智明、お前が引き受けてくれなかったら産業廃棄物として処理しなくちゃいけないってうちの連中は言っているんだ」
菜摘も真似をして傍の本を取ったが「読めない」と元に戻す。
「なーんだ、たいしていい本、ないんだね」
はっきり本質を言い当てた菜摘に智明と正直はがっくりとなった。
苦笑しながら智明は幾つかの本を開いてみた。
「稀覯本だったら値が出るとは思うけれど……すべては需要と供給の問題だからね……『姦淫聖書』だったらすごい財産なんだけど」
「なんだ、『姦淫聖書』って?」
「叔父さんから聞いたけど、誤植でね……」
十七世紀に刷られた聖書だ。「十戒」の「汝姦淫するなかれ」が「not」の欠落のため「汝姦淫せよ」と印刷されてしまっているのだ。
「全世界で6部しかないっていう希少本なんだって」
「へーっ、やっぱ智明って物知り!」
感心する菜摘にちょっと智明は気分がよくなる。
「ここにはそんなのは絶対ないな」
一言で正直は否定し、胸を叩いて請け合った。
「とにかく高い値段がつくような本があっても、関係ないってみんな言ってるんだ。好きな本を持って帰ってくれよ。智明、お前んとこが引き取ってくれるだけでうちは助かるんだ」
「そう言われても……」
ただでもらってそれが値打ちのあるものだったら困る。智明自身も叔父からいろいろ知識を伝授してもらってはいるが、まだ叔父のようにその場で鑑定するのは無理だ。そのため出張鑑定は叔父がもっぱら行っている。叔父の入院理由は、つい先頃、出張先の古い蔵で、梯子から転げ落ちたためなのだった。
「だったら、売れた時点で考えるってのはどうだい?」
「それなら何冊か、預からせてもらいますよ」
智明は目の前の書棚を上から下までざっと見回し、数冊手に取った。
ふと、なにやら首筋の辺りの毛にさわりと触れるものを感じた。
なま暖かく、人の息のようだ。
「正直さん?」
背後を振り返った。
誰もいない。
正直はすっかり飽き飽きした顔で階段に腰を掛けている。菜摘のほうは一階で怖いもの知らずと言った風でホルマリンの水槽を覗いている。
「なんだ、風か」
そのままちょうど後ろにあった書棚に手を伸ばす。
「あれ……」
書棚の一番奥にぼんやりと青く光るものが見え、智明はそちらへと本の背表紙を伝って指を滑らせた。
「あれれ……」
強力な磁石に吸い寄せられるように指がひとりでに進んだかと思うと、一冊の本の上で止まった。
黒い革表紙の本で、かなり古いものだ。革はところどころ剥げている。背表紙からは本のタイトルは読みとれない。
書棚から取り出すとついでにその隣にあった本も数冊、一緒に小脇に抱えた。
「下まで俺が持ってやるよ」
正直が智明の手から本を取り上げる。手の空いた智明はもう何冊かの本を書棚から取った。
「この次は台車を借りてくる。僕はこっちのを持って下りるよ」
なんとか両腕で支えられるだけの重量の本を胸に抱くと、二人は足元を確かめながら階段を降りた。
菜摘はまだ興味津々で水槽を覗き込んでいる。
「おい、菜摘、いつまで気味の悪いものを見てるんだ。もう行くぞ」
呆れて正直が声を掛ける。
「えーっ、まだ見てたいのにー」
不満そうな声を出した菜摘だが、さすがに一人で残るのはいやだったとみえ、あとについて離れを出る。正直が鍵を掛けていると母屋の玄関が開いた。
髪を明るく染め、ミントグリーンのカーディガンを羽織った品の良い中年婦人が現れる。
「直ちゃん、智明ちゃんにこちらでお茶を飲んでいただいたら? 埃で喉を痛めたのではないかしら?」
三代目羽山家当主の令室、羽山澄子であった。
「智明ちゃん、顔に煤が付いているじゃないの、まあー」
澄子夫人はレースのハンカチを取り出し、智明の鼻のてっぺんを優しく拭う。
「え、け、結構ですよ、澄子小母さんこそ汚れますって」
遠慮する智明に構わず、澄子はニコニコしながらハンカチでなおも拭き続ける。童顔の智明は澄子のお気に入りなのだった。
「智明ちゃん、相変わらず可愛いわねえ。女の子みたい! 正直ったら、小さい頃は可愛かったのにこんなにごつくなっちゃって……男の子はつまらないと思ったけど、智明ちゃんみたいに可愛かったらいいわねえ。菜摘ちゃんは男の子みたいだし」
正直はぷっと噴き出した。
「菜摘はほんと、智明より男っぽいからなあ」
「ジーパンなんかはいちゃって……もっとおしゃれをすればいいのに。この前のドレス、どうかしら?」
後ろにいた菜摘がしかめっ面をする。
「やーだ、ドレスなんか。動きにくいもん」
子供のいない澄子はなんとか菜摘に可愛らしいドレスを着せようとしているのだが、まるで相手にしてもらえない。
「せっかく作ったのに……そうだわ、智明ちゃん、代わりに着てくれないかしら?」
正直は硬直している智明の腕から本を奪い取ると顎で促す。
「なに、言ってるんだよ伯母さん! そんなことより、もう喉がガラガラだよ」
玄関を入ってすぐの応接室に智明たちは通された。
色ガラスの嵌めこまれた張り出し窓がある広い洋間だ。暖炉がついていて、この上に屋根から聳えるチムニーがあるのだった。どっしりとした梁に大きなシャンデリアが下がり、壁には金の額縁に入った洋画が掛けられている。
布張りのアームチェアに腰掛けると智明は「すみません」と断り、持ち出した本を開いてみた。
「本当にごめんなさいね、こんな汚いものを……」
澄子は椅子の傍に立ったまま困った顔で見つめる。
「お舅(とう)さんとお祖父さんは古本が好きだったけど……うちの人はあんまりその趣味がないの。それに今ではなんでもCD―ROMだって言って、なおさら本には見向きもしないのよ?」
三代目当主は理学部の教授なのだった。
「智明ちゃん、全部持っていってもいいのよ? だいたいお舅(とう)さんはあなたの叔父さんの智幸さんと仲が良くって、『儂が死んだらお前たちのように物の価値のわからない者でなく、智幸くんに本は譲る』って言ってたんだから」
令夫人の不満が一気に爆発する。
「お姑(かあ)さんだって、本当はこのうちが陰気で嫌いだったのよ。あの離れなんて、私が嫁いでから一度も入るのを見たことがないのよ? お舅(とう)さんが亡くなってから、こっちにいると思い出して寂しい、なんて言って伊豆に引っ込んでるけど、本当はこの家にいたくないのよ」
「伯母さん……」
マドレーヌを頬張りながら正直がたしなめたので、澄子夫人は「あらまあ、ごめんなさいね」と口に手を当てた。
「で、どうなんだい、智明?」
正直が覗き込んだので、はっと智明は顔を上げた。
「この本は結構古いものですよ……曾お祖父さんが買ったものじゃないかな?」
飴色の革で装丁された大きな本を取り上げ、表紙を開いた。
「『Gedrucked in Prag』とある……これはチェコのプラハで印刷されたものだよ、きっと」
ポットにお湯を注いでいた澄子夫人はまあ、と感嘆の目で智明を見る。
「よくわかるのねえ、智明ちゃん」
「すげー、さすが古本屋!」
菜摘の言葉に智明はちょっと傷ついて「古本屋じゃないよ」と反論する。
「単なるバイト。本職は……えーと、文学部志望!」
「まあ、文学部志望なの、智明ちゃんは! まだ小さいのに文学を読むなんてえらいわ」
澄子は真顔で続ける。童顔の智明はまだまだ子供、と思っているふしがある。
子供扱いに羽山が異を唱える。
「伯母さん、智明はもう十八歳なんだぜ?」
「あらそう? まるで見えないわ、可愛いわねえ。正直が十八の時にはもうごつくなっちゃって、髭も生えて……」
先ほどの話題に戻りかけたので正直は諦めて澄子から智明に視線を移した。
「でもなぜプラハの本があるのかな?」
智明が首を傾げると、正直が答えを出した。
「伯母さん、曾祖父さんの留学先はウィーン大学じゃなかったかな?」
正直は同意を求めるがおっとりとした性格の澄子夫人は「あらあ、そうだったかしら?」と首を傾げた。
「なるほど」と智明は納得する。
「曾お祖父さんが留学してたのは明治時代でしょう?その頃、オーストリアはオーストリア・ハンガリー帝国といって、チェコスロバキアまで含む広い領土だったんですよ」
「なるほどー」と正直が感嘆の声を上げた。
「だから留学していた曾お祖父さんがプラハへ行って古本を買った、というのは大いにありえますね」
智明は俄然熱意を持って本を調べだす。澄子が「お紅茶のお代わりは?」と尋ねても答えずに夢中なのかページを捲っている。
それを見ていた菜摘がまた「智明ってなんでも知ってるんだね」と口を挟んだ。
「でもなんでそれで大学、落ちちゃったの?」
「え、ええっ?」
どきりとして智明は本を取り落としそうになった。
「お、おい、菜摘!」
慌てて正直が菜摘の服を引っ張る。悪気はないにしろ、ストレート過ぎる言葉にその場の皆が固まった。
慌てて正直はフォローに回る。
「ほ、ほら、うんちくばっかでも試験にはいい点を取れないだろう、なあ?」
しかし正直の言葉はもっと傷を深くするようなもので、智明は大きく溜め息をつく。
この兄・妹は性格がそっくりと言えよう。
(菜摘ちゃんにとって、僕は駄目な浪人生なんだ……)
それはつまり、正直にとってもそうなので。
いつまでたっても半人前で、助けてやらねばならない弟分なわけで。
それは仕方がないかも知れない……事実、ずっと助けられてきたし……。
(だよね、半人前だものね……)
今のままではとても告白などできない。
(まあ、いいや。とにかく大学に合格してからだ)
気落ちしながらも智明は再び本に注意を戻した。
「うーん……そうだよ、当たり前のことだ」
やがてがっかりした声をあげたので正直が「どうした?」と尋ねる。
「いや……これはそもそも復刻版なんだ。十六世紀のプラーハでは印刷技術が盛んで、ものすごくたくさんの本が出版されたんですよ。だからその頃のものならとても価値があるんだけど……紙質が全然新しいし、ちょっと考えればすぐ判るのにな」
澄子夫人はポットからカップに紅茶を注ぎ足しながら「いいのよ、どうせ期待してませんから」と言う。
そして溜息をつきながら「あっちの博物館のものも引き取ってくれると嬉しいんだけど」と智明の顔を覗き込んだので、智明はぎょっとした。
「だ、駄目です!」
「でしょうねぇ……」
夫人は今度は正直を見た。
「直ちゃん、うちには子供がいないから、この家はあなたにあげるわよ。あたしたちがいなくなったらあの離れのもの、始末、頼むわね?」
正直は頬張っていたマドレーヌを吹き出しそうになった。
令夫人にいとまごいをし、邸の外へ出ると、菜摘は「あたし、友達と約束してるから」とさっさと歩きだす。
「遅くなるなよ!」
正直が怒鳴るが、菜摘は振り返りもせずに走っていく。
「やれやれ、ほんとにお転婆だからな。心配だよ」
心底心配そうな声に、思わず智明は正直の顔を見上げた。
「ボーイフレンドと?」
「いいや、なんか、同級生とアニメ映画を観に行くって言ってたよ。まだまだガキだなあ」
それでも正直の太い眉毛はへの字だ。
(正直はシスコンなんだよね……)
それもまた智明の悩みの種だ。
だってそれは妹につく虫として男を見ているわけで。
それはつまり男を敵(ライバル)としてしか見ないというわけで。
なんだかこんがらかってきて、智明は考えるのをやめて歩きだした。正直が慌ててついてきて「一緒にそこまで行こう」と言う。
「俺は家に帰るからさ」
正直の家は獣医科病院で、T大の近くにある。歩いて大横町(おおよこちょう)通りまで出ると、二人は右と左に別れた。
「大横町(おおよこちょう)通り」とはなかなか上手い名前を付けたもので、単なる「横町」でも「通り」でもない、だが「大通り」ではない、それでもちょっとした幅も広さもあるのだという住民の自己主張が厭味ではなくさりげなく表れている、と言ってもいい。
両側には新築のビルの谷間に昔からの木造二階建て商店が並び、昭和の香りを残している。
「本郷懐古堂」はそういった昔のたたずまいを残す大横町通りの外れ、壱岐坂(いきざか)の手前にあった。江戸時代、壱岐守の屋敷があったことから名づけられた坂だ。
建物自体は古い三階建てのビルで智明の叔父がその母が亡くなったとき相続したものだ。店子を入れたらという周囲の勧めに耳を貸さず、叔父の智幸は趣味の古本屋をそこで始めた。長女で智明の母・由希子が下宿屋「弓町ハウス」を継いだことになる。
小さい頃から本好きの智明は懐古堂に入り浸り、叔父の趣味にどっぷりと影響された。
誰にも言えないが、いつかは小説家になろうと決心したのもそのせい。
そしてT大を受験してあえなく失敗した。
今は母親の愚痴に耐えながら予備校通いだ。
だが智幸叔父が入院し、古書店懐古堂の留守居となったことで、智明の人生は百八十度変わった、とはこの時点でまだ知る由もなかった
その懐古堂を目指し、羽山と別れて大横町通りを歩き出した智明は再び妙な風をうなじに感じていた。
襟足の毛がまるで静電気でも起こったようにチクチク逆立つのがわかる。さっき刺青博物館で感じた同じ感覚だ。
さらに持っている本がなぜか重力の軛から放たれて浮き上がっていくような心持ちになった。かと思うと、ふいに自らの重さに気づいたかのようにずしんとまた腕の中に舞い戻る。
ふと見ると、通りの向こう側に停まっている軽トラックからタイヤが外れ、坂を転がっていく。
「危ないなー、ちゃんと締め付けておかないから……」
独り言ちた瞬間、タイヤの行く先は壱岐坂下ではなく重力に逆らって逆方向の本郷通りのほうだと気がついた。
「そんな馬鹿な……いったいどうしたんだろう」
見慣れた大横町通りの風景はいまや、誰も行ったことのない不思議の国の風景と差し変わっているようで、智明は思わず歩みを止めた。
車道と歩道の境目には交互に篠懸(プラタナス)と銀杏が植えられていて、風もないのになぜかはらはらと葉を散らしている。季節は春で落葉にはまだ遠いはずなのに。
掌よりも大きな葉と切手のような小さな葉が入り交じってくるくると回転し、日の光をきらきらと反射する。
きらり、きらり。ちらり、ちらり。くるくる葉が回るごとに乾いた金属音が鳴る。まるでチェレスタの響きのように。
誰も不思議に思わないのかと智明は辺りを見回したが、ただでさえ都心の寂れた商店街は日曜の午後はゴーストタウンだ。
道を行く人影は遠くにあったが、それもなにやらはっきりしない。小人のように縮んだかと思うと、急にひょろりと首と足が伸びて、ダリの幻想絵画の中で永遠に砂漠の中を彷徨っている動物みたいになる。
「な、なんだろう……」
まさかさっき飲んだ紅茶に変な薬が入っていて……。もしくはブランデーが入っていて……?
「そんなわけ、ないよな……」
ぶるりと首を振る。
いや、さっき家を出るときから妙な出来事が起こっていたのだと思い出す。
「熱でもあるのかもしれない」
額に手をやりたくとも両手は塞がっている。
「とにかく早く帰って休もう!」
すでに懐古堂まではあと数歩という地点に辿り着いてはいた。ちょうど隣にある整体治療院の前だ。二階建ての古い家で、木戸のような小さな門にペンキの剥げかかった看板が下がっている。玄関の横の坪庭から赤い実をたわわにつけた枝が歩道に伸びている。
その枝に黒い鳥が羽を休めていた。烏(からす)よりもずいぶんと小さく、頭のてっぺんがぼさぼさに逆立っていて、
「ヒヨドリかな?」
智明は凝視する。
鳥はすると蝙蝠(こうもり)のように逆さになって枝からぶら下がり、嘴を開けた。
どこからともなく美声とは言えないがラップのような掠れた歌声が聞えてくる。
カケスのおっさん、カケスのおっさん、
蜥蜴(とかげ)、呑むな!
声が嗄(しゃが)れて出なくなる!
さ行とか行の区別もつかんと、
物まね鳥に笑われる!
カケスのおっさん、カケスのおっさん、
蜥蜴呑むなら頭から!
でないとシッポ切って逃げられる!
さもなきゃ木の実を食べろと、
物まね鳥が馬鹿にする!
「はあ?」
思わず智明は訊き返してしまった。
すると黒い鳥は嘴を噤む。
歌声は聞えなくなった。
鳥が嘴を開くと、再びあの不思議な歌が聞えた。
カケスのおっさん、カケスのおっさん、
南天を食え!
があがあ声が良くなるぞ!
三節目の途中で鳥は急に嘴を閉じ、辺りはしんと静まり返った。
「となるとやっぱりお前が歌ってるのか?」
鳥は黒いビーズのような眼でじっと智明を見る。
そして智明の眼には肩を竦めたように見えたのだが、両の翼を素早く上下させると、傍にある赤い実をついばんだ。
二、三個続けて飲み込むと、嗄れ声で「声なんて良くなんねえよ」と言った。
もうあまり智明は驚きを感じなくなっていた。
思わず「それは南天じゃないよ」と言ってしまう。
「ピラカンサ。バラ科の植物で、結構鳥は好物みたいだけどね。南天じゃないよ」
鳥は「ええっ」と大声を上げる。もう一個、実を嘴で捻り取ると、くわえたまま羽ばたく。ふわりと風に乗ってその場を去った。
智明は小さくなっていく鳥を見送る。
「ふう……でもなんで鳥って、食べ終わって飛び立つとき必ず一個くわえてくんだろう? お土産にするのかな?」
見ているとどんな鳥も必ずそうする。
さっきからずっと変な光景に晒されてきた今の智明にとってはそのほうが謎、という気分だった。だが見送って歩きだした途端、次の謎に思い当たる。
「なんで今の季節にピラカンサがなってるんだろう?」
振り返るとやはり、赤い実が見えた。そして他の家のピラカンサはまだ花もつけていない。
「あそこは日当たりがいいからなんだ」
そう結論づけ、再び歩きだした。