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 正直(まさなお)は龍岡(たつおか)門から構内に入ると、付属病院の前を通り一気に敷地を突っ切る。
 坂を下って弥生(やよい)門から出ると言問い通りへと向かい、通用門から農学部へと入った。
 農学部には古い建物がだいぶ残っている。校舎は赤煉瓦造りの重厚なアーチを組み合わせたルネッサンス様式だ。それでも時代のニーズによって「分子細胞生物研究所」といった新しい研究施設も増築されてはいる。
 正直の通っている獣医科は農学部の中にあった。
 以前は「家畜病院」という名前だった病院棟も今は「動物メディカルセンター」と言う名の新築棟である。
 その裏手に開けた場所があって牛やヤギを飼うための厩舎が何棟か建っている。
 大型の患蓄(といっても、象や猛獣を見ることはないが)を繋ぐための柵が並んでいた。
 馬術部の学生が連れてきだのは中央競馬協会から下げ渡されたサラブレットだ。学生馬術の振興のため、無料で各大学の馬術部はレースに出なくなった馬を今度は乗馬用として提供されているのだ。
 くだんの馬は食欲が落ち、腹が膨れてきたということで急遽獣医学部に持ち込まれたも


のである。
 すでに白衣を着た畜産科の講師が診察をしているところだった。学生ボランティアでいつも手伝ってくれる正直が現れたのでほっとした顔を見せる。
 診断を下すのはいいが、洗腸といった面倒な治療は学生や下のものに任せたい、というのが講師の本音だ。
「呑気(どんき)症だと思うが、腸の内容物を確かめたほうがいい」
「よし、みんなゴムのエプロンをつけろ」
 てきぱきと正直が指示をする。講師が続けて注意を促す。
「それからゴム長も忘れるなよ?」
 治療というよりは大掃除といった作業衣なので、智明は「これから何をやるの?」と尋ねた。
「馬はねえ、腸が長いから、異常発酵してよくガスが溜まるんだ。そうなるとイレウスっていってね、腸閉塞を起こすことが多いんだよ」
 講師は水道の蛇口についたゴムホースに手を伸ばす。
「だからこのホースを肛門からぶち込んで、腸を洗うんだ」
「うわっ、そんなのは見たくないなー。終わってから呼んで」
 智明は急いでその場に背を向ける。
 離れているところで治療の終わるのを待っていると、並んで建つ「生物生産工学研究所」のほうから白衣を着た若い男がやってきた。
「あれ、戸田さんとこの人じゃないか?」
 男は智明の前で立ち止まると、太い黒縁の眼鏡を持ち上げた。
「戸田さん、どうしたんだい? 鬼の霍乱かい?」
「え? どういう意味です?」
「だってここんとこ珍しく休んでるからさ。あの親が死んでも培養液を取り替えに来る人がさー、連絡なしに休むんだもの。よっぽどの重病かってうちの研究班で心配してたんだよ」
 そんな話は母親からも聞いていなかった。だが猫のことが一番の心配事だったから言い忘れていたのかもしれないと思い当たる。
「僕、家に帰ったら戸田さんの様子を見てみますよ」
「頼むよ」


 しばらく馬と戯れて実家の「弓町ハウス」に戻った智明は玄関に見覚えのあるスニーカーを発見した。
「ええっ、岳斗、まだいるのか?」
 小太郎を届けたらすぐに店へ帰ったもの、と思っていた。
「あいつ、最近ずうずうしいよな……」
 そう、智明に断りもせず勝手に家に上がりこみ、御飯をご馳走になっていることはしばしばだ。
 どうも何歳になってもちょっと不良っぽいハンサムな男に女は甘いらしく、母親はしっかり岳斗を可愛がっている様子だ。
 案の定、食堂から機嫌のよさそうな由希子の甲高い声が聞こえてくる。
「あーっはっはっはっ、いやーっ、岳斗ちゃんたら!」
 妙なハイテンションに智明は首を捻りながら食堂へと行ってみた。
「あなた若いのになんでそんな昔のこと、知ってるの?」
「俺のじーさんに聞いたんすよー」
 本当は八百十九歳だから当然なのだがと思いつつ、智明は近寄った。
「あら、智明ちゃん、あなたもアップルパイ、お食べなさいよ。焼きあがったばかりなのよ?」
 相変わらずシンクの三角コーナーにはミノムシのような小人たちが何人か群がっている。智明はぎょっとして母親の顔を窺ったが、どうも由希子には見えていないようだ。
「なんか、慣れちゃって見えなくなっちゃったらしいぜ?」
 怪訝な顔の智明に岳斗が耳打ちをした。
「それでもお袋、妙にハイテンションじゃない?」
「ああ、どうもな……やっぱ、地霊のせいだろうな……」
 岳斗はふんふんと犬のように鼻を鳴らす。
「なんか、この家には特別な霊気を感じるぜ? チアキが住んでいるせいなのかな? それとも……」
「や、やなこと言わないでくれよ。ただでさえ、首なし死体なんて事件があったんだから!」
 アップルパイを三切れ平らげ、さらに「店番をしてくれている従姉妹へのお持たせ」として二切れ包んでもらうと、やっと岳斗は智明とともに弓町ハウスをあとにした。
「いやー、お前のかあちゃんは料理が上手くていいな。色白で結構ふっくらしてて、もうちょい若ければ、いただいちゃってもいいんだけど」
 吊り上った琥珀の眼が妙に艶っぽく光る。へっへっとピンクの舌で唇を舐めるので、智明は焦って「絶対駄目だぞ!」と叫んでしまった。
「冗談だって。俺の好みは処女だからな。お前のかあちゃんは守備範囲外だ」
「ふざけるなよ!」
 ふざけてないって、と岳斗は頭の後ろで腕を組んで口笛を吹く。
「けど料理が上手いってポイント高いぞ? 俺、お前んちに下宿しようかな?」
 ちょ、ちょっと、と智明は呆れた。できればいなくなってもらいたいぐらいなのに……悪魔と一つ屋根の下なんて金輪際ごめんだ。近くにいるだけで十分、変な事が毎日起こっている。さらに岳斗の影響かどうか知らないが母親までもが妙なテンションになってきているのだから。
「あんまりお袋に影響を与えないでくれよ?」
「俺のせいじゃないよ、地霊のせいだって」
「その地霊を活発化させたのは君なんだろう? だったらやっぱり、君のせいだ!」
 さっきまで「ひょっとして役に立つかも」と思っていたのだが、すっかり撤回したい気分だ。
 だがその智明の判断は正しかった。
 妙な霊気に影響されたのは母親だけではないと翌朝思い知ることになる。


「弓町ハウス」の朝は騒がしい。
 六人いる下宿人たちがほぼ揃って朝食を摂る。T大生もいるが社会人もいる。予備校生もいる。景気の低迷で仕送りが減り、最近賄い付きの下宿は人気が上昇しているのだ。
 親元を離れて暮らす彼らの母親代わりなのだという自負が由希子にはあり、その結果、家族はいつも後回しだ。下宿屋にマスオさん状態で入った会社役員の父親は下宿人が終わって部屋に帰ったあと、そっと「いいかね?」と新聞を片手に入ってくるのが常だ。
 智明は構わず勝手に自分でご飯をよそい、下宿人たちと一緒に食べる。そうは言っても、一番のラッシュ時は避けるようにしているが。
 その朝も少し遅れて参加し、味噌汁を温め直しているとき。
「行ってきまーす」
 何人かの元気な声が玄関から響き、続いて引き戸の閉まる音がする。
 目の前のテーブルでまだ食べている下宿人の中に戸田の姿がないことに気づいた。
 夜遅くまで研究しているため、戸田の朝は遅めだ。いつも寝巻き代わりのスエットに半纏を重ね着するという色気のまったくない姿で男並みの食欲を見せているのに。
 その時やっと同じ研究室の人に言われたことを思い出した。
「お袋、戸田さんは?」
 食料庫になっている隣の六畳間を覗いて母親の姿を捜した。
 母親は産地直送玉葱のダンボールを開けているところで、こちらを見ずに「戸田さんはずっと前に出勤なさったみたいよ?」と答える。
「このところ、朝食抜きで早く出かけてるわ? お仕事が忙しいみたい」
「え?」
(最近来ていない、と同じ研究室の人が言っていたのに……)
「それよりやっとこを持ってきてよ」
 味噌汁の椀をその場に置き、靴箱の隣に置いてある工具箱へと智明は取りに行く羽目になった。
 念のため、靴箱を覗いてみる。いつも戸田の履いているリーボックはなかった。
 と、智明の目の前を小太郎が太った体をゆさゆさ揺らしながら通り過ぎる。そのまま二階へと階段を上っていくので、「こら、小太郎!」と呼んだ。
「お前、昨日の今日でまた盗み食いに行くつもりか! 治療費がすごくかかるんだぞ!」
 小太郎はしまったという顔で振り返る。背中を丸め、太い足を必死で動かして駆け上がっていくので、急いで智明は後を追った。
 二階の下宿部屋は廊下を挟んで左右に五部屋ずつ並んでいる。
 家族の住む二階は後で建て増しされたもので、小さな中庭を隔てて下宿部屋との繋がりはない。
 階段だけが下宿部屋への通路というわけだ。
 六畳に簡単な流しとトイレつきだが風呂なしなので、いくら安くても女性が入居することはめったにないのだが、そこが戸田の変わっているところだった。


 小太郎はその戸田の部屋の前にいた。
「小太郎!」
 名を呼んだがその場を離れない。
「ほんっとに食い意地がはっているんだな……」
 呆れて近寄ると、背筋の毛が逆立ち、後脚の間に挟んだシッポが太くなっていることがわかった。
 ぴんと張った髭を細波のように震わせ、低い声で唸っている。瞳孔はまん丸だ。
「小太郎、どうした? 鼠でもいるのか?」
 智明が近づくと味方を得たと思ったのか、扉の隙間に鼻をくっつけ、さらに大きな唸り声を出した。
「あっ……」
 なにやら首筋の毛が逆立つのを智明は感じた。
 それだけではない。扉の隙間から黒い煙のようなものが廊下に噴き出してきていることに気づいた。
「え……火事?」
 焦って顔を近づけると、匂いも熱も感じない。
「これは……ただの煙じゃないんだ」
 ドライアイスの煙に似て、じわりと壁を伝って床に広がる。廊下は年月を経て飴色に磨きこまれているが、その色に吸い込まれるようにして煙は消えていく。
「お先にー」
 下宿人の一人がバッグパックを背負って部屋から出てきた。
「き、君、こ、これ」
 智明が煙を指差すと、「へ?」と怪訝な顔になった。
「なんすか?」
「いや、いい」
 どうも彼には見えていないようだ。「じゃあ」と階段を駆け下りていく。
(最近岳斗といつも一緒にいるせいかな……霊感能力がグレイドアップしてきたのかも)
 小太郎を抱き上げ、扉の前にしゃがみこむ。呆然として中から出てくる煙に視線を貼りつけていると、
「いる、いる」
「におうぞ、におうぞ」
 か細い声がそこここから上がり、智明は驚いて辺りを見回した。
 すぐ傍の柱の陰に一センチばかりの黒光りをした丸い虫が蠢いている。背中は丸みがあってテントウムシを二回りほど大きくした大きさだ。
「げっ」
 虫の頭部に当たるところには小さな人間の頭がついていて、どうも精霊らしい。
 一列に並んでこちらへやってきた。


いそげ、いそげ、
シデムシ、ハンミョウの来る前に。
いそげ、いそげ、
シキミ、ササゴの生える前に。


 歌いながら虫(? 小人?)たちは扉の隙間に群がって、うんうんと唸りながら身体を入れようとする。だが小さくても厚みがあるので、ことごとく失敗し、また飛びついては床に落ちる。
 見ていると気味が悪くなって智明は後退りした。すると腕の中にいた小太郎がひょいと下り、虫に飛びかかる。
「わーっ」
 小人たちは丸い身体をワラジ虫のようにくるりと丸め、転がってわらわらと逃げていった。
「うう、気色(きしょ)い」
 思わず岳斗並みの言葉を吐く。
「これならシンクにいるミノムシみたいなほうがまだましだ……」
 それにしてもこの扉の向こうにはなにかおぞましいものがあるに違いないと智明はぞっとした。ノブを回してみたが、無論鍵がかかっている。
 もっとも安普請だから力を込めれば簡単に開く。さらに隣のベランダから侵入することも容易だろう。
 しかし首筋のぞわぞわ感が、一人で入るのはやめたほうがいいと教えているのだと智明は結論づける。
(それに大家の僕が勝手に入るのはいかにもまずいよな)
 実際にはちょっと臆病風に吹かれているのだが、そういうことにしようと智明は唸り続けている小太郎をまた抱くと、階段を下りた。
「いったい何があるんだろう……」
 本心から言えば見たくない。だが自分の家に怪しいものがあるのは困る。
 しかもいつもと違った行動をとっている戸田の部屋になんて。
「絶対何かあるんだ、あそこには」
 一階まで下りたその瞬間。ガラリと乱暴に引き戸が開けられ、玄関の三和土に現れたのはたった今、頭に浮かべていた戸田の姿だった。だが普段の見慣れた姿ではない。
「え……」
 いつもの化粧っ気のない雰囲気とまるで違う。
 眼鏡は同じものだが、真っ赤なルージュを引き、アイラインは真っ青だ。襟ぐりの開いた白いブラウスからは乳房の深い谷間が丸見えである。ぴったりとした赤いミニからは逞しい太腿があらわになっている。だが履いているのはいつもの黒いリーボックだ。
(と、戸田さん?)
 智明の疑問そのままに、腕の中の小太郎がくわっと口を開く。ふーっと毛を逆立てた。
「こ、こたろう?」
 いつも戸田にはすりすりと擦り寄るのに。慌てて抱いている腕に力を込める。
 戸田は眼鏡を外すと智明の脇を抜けて階段へ向かう。上がっていくとてっぺんでこちらを振り向いた。
「う……」
 光る眼にはどろりとした悩ましげで、それでいて憎しみのようなものがこもっていて、智明は首筋から背中へと冷たいものが這い下りていくような感覚に襲われた。
(あの眼は……)
 そう、あれだ……よく怪談なんかでやる「見ーたーなー」というあれ。
(あれは戸田さんじゃないよ!)
 容れ物(からだ)はそうだけれど中身(こころ)は違う!
 猫を抱いたまま、小走りに食堂へと戻った。由希子が期待に満ちた声で隣の六畳から呼ぶ。
「智明ちゃん、やっとこは?」
「あっ、忘れた!」
「んもう、頼みがいがないわねえ」


 朝食を急いでかきこみ、「懐古堂」へ行くと、まだシャッターは閉まっていた。店の開店は昼頃なので、これは当然だ。
 三階へ昇ると、岳斗が床に敷いた布団の上で本を読んでいる。
「あれ、どうしたんだ、今日は早いじゃないか? 予備校、休みなのかよ」
 岳斗は布団の上に胡座をかき、智明を見上げる。
「岳斗、うちに下宿している人が変なんだ。ほら、戸田さんっていう……」
 終いまで聞かず、岳斗は「ああ、あのイケてない女な」と頷く。
「そりゃ変だろうよ、言われなくてもわかるって」
「そうじゃないんだよ! なんだか別人になっちゃったみたいなんだ……化粧も厚くなって、胸が丸見えの服、着て」
「男でも出来たんじゃないの? よかったじゃないか」
 あー、もう、と智明は岳斗の腕を引っ張り、立ち上がらせる。
「とにかく一緒に来てくれよ! 君は僕に仕えてるんだろう?」
 とんぼ返りで「弓町ハウス」に戻ると、玄関先に由希子が困惑顔で立っていた。買い物袋を手にして、これから出かけるというなりだ。
 智明と岳斗の顔を見て、ほっとした表情になる。
「ちょうどよかったわ、なんだか変なの」
「変ってなにが?」
 しっ、と由希子は唇に指を当てる。
 二人を食堂へと導き、椅子に腰掛けさせる。
「さっき、二階へ上がったら……」
 面倒見のいい由希子は下宿人に頼まれると留守の間に部屋の掃除もしてやっていた。
 もちろん鍵などは預かっている。
 今日も頼まれた子の部屋に入り、掃除をしていると……。
「戸田さんが怖い顔をして扉の隙間から覗くのよ……」
 掃除を終えて廊下に出ると、戸田が自分の部屋の前に立っている。背中をぴったりと扉につけ、
「『入らないでよ』って怖い声で言うのよー」
 そのあとも扉の前から動かず、由希子が一階へ下りていくまで視線を投げかけてたのだった……。
「なんだか変よ? まるで人が変わったみたい……」
 岳斗がふんふんと犬のように鼻を鳴らす。琥珀色の眼が輝きだした。
「……おい。この近くに絶対、霊がいる。地獄へ堕ちずに彷徨っている浮遊霊だ」
 小声で智明に耳打ちする。
「げっ」
 両腕に鳥肌が立つのを感じ、智明は思わず掌で腕をさすった。
「お袋には内緒にしたほうがいい、ひどい怖がりだから」
 不安げに階段のほうへ視線をやっている由希子を横目で見ながら、智明は岳斗に囁き返した。
 わかったという丸印を岳斗は指で作る。
「オバサン、俺らに任せておけって。調べてやるよ、とりあえず買い物にでも行ってきたらどう?」
 明るい声で由希子に話しかけた。
「そうねぇ……とにかく夕ご飯の支度はしなくちゃいけないしね……今夜はトンカツにしようと思うの。それから玉葱が届いたから、オニオングラタンスープを作る予定よ? お昼からちょっとデパートまで行って、いいパルメザンチーズを探してみるわ」
 一気にキッチンモードに入り、由希子は元気を取り戻す。
「じゃあ、お留守番お願いね」
 由希子が出かけると、今後の方針を二人は相談することになった。
「チアキ、あんたが見た変な虫みたいのは『フズリ』だよ。霊の滓を食ってる下等な精霊さ」
「うーん、そうだったのか」
 だが霊の浄化には欠かせない結構役に立つ奴らなんだぜ、と岳斗はつけたす。
「ま、霊の食物連鎖みたいなもんだ。戸田って女の部屋には何か霊が溜まってるんだ、浄化されるべき霊がな」
 とりあえず階段のところでは目立つと食堂に二人は移動する。
「たぶん、あの戸田って女は取り憑かれたか、さもなきゃ操られてるかだな」
 食堂の窓は小さな中庭に面している。なんのために作られたのかわからないほどのスペースだが、このおかげで台所には午前中、日が差し込んで明るい。
 岳斗はシンクに近寄って窓から中庭越しに二階を窺ってみた。
「どう、何か見える?」
 智明も傍へ行き、同じように首を伸ばした。
「あのなー、こないだ言っただろ、俺は悪魔で、千里眼でも透視能力者でもないんだぜ?」
 それでも岳斗は眼を細め、精神を集中させる。
「かなり恨みを残した霊だな……黒い怨念があの部屋をベールみたいに取り囲んでいて、何も感じられない。俺の力を撥ね返すなんて、相当なレベルだぞ」
「戸田さんは中にいるの?」
 一呼吸置いて岳斗は肩を竦める。
「そうか……どうしたらいいのかな?」
「簡単なことだ、鍵を開けて中へ入ればいいのさ」
 勝手知ったるという態度で岳斗は冷蔵庫を開け、中から牛乳パックを取り出した。口をつけて飲み始める。
「そんな……鍵はないよ」
「俺の力をもってすれば、鍵くらい簡単に開くさ」
 飲み干すと岳斗は手の甲で口を拭い、にやっと歯を剥き出した。
「けど、霊がいないときのほうがいいな……残された気から奴の正体を調べられるだろう。そうすれば簡単に地獄へ堕とせる。俺もポイントゲット出来る。お前のかあちゃんは安心する。一石三鳥だ」
「だったら戸田さんが留守のときを狙えばいいね!」
「だな。出かけたらすぐ作戦開始だ! こいつは面白くなりそうだぜ? 俺さあ、張り込みってやってみたかったんだ! あの首なし死体事件もまだ解決してないしさ、忙しくなりそうだ!」
 眼をきらきらと輝かせる岳斗をちょっと呆れて智明は見上げた。
(そうか、こいつは警察オタクだったんだっけ……)


 その日から岳斗は店番を智明に押しつけては外へ出かけ、近所を嗅ぎ回り始めた。
 ラブホテルで首なし死体が見つかってからというもの、警察の聞き込みやらメディアの取材やらでやたら大横町通りも人が行き交っている。
 岳斗は街の聞き込みをしている刑事などからしっかり魔力を使って情報を得ていた。
 ある日店に帰ってくるとレジについていた智明に報告する。
「あの人でなしの被害者は、この近くにマンションを借りて住んでいたんだとさ」
「ええっ、この近くに……いやだなあ、最近本郷も危なくなったね、逃亡犯は潜伏するは、悪霊は出没するは……」
 値札を本に貼りながら智明はうんざりした。
「それより、戸田さんの部屋も早く調べた方がいいよ」
 戸田はあれからちょこちょこ外へ出かけるのだが、研究室へは休みの届けを出していた。いつ帰ってくるか見当がつかず、部屋へ忍び込むことを躊躇っていたのだった。
「じゃあさ、俺がおとりになってあいつを連れ出すからその隙に調べるのはどうだ?」
「それはいいけれど」
 承知しかけてはっと気がつく。
「嫌だよ、僕一人で変なものがいる部屋に入るのは」
「大丈夫、俺と一緒に入ればいいだろ?」
「ええっ、だって君は戸田さんを誘い出すんだろう? 僕と一緒に部屋に入るなんて無理じゃないか」
 まん丸い眼で見上げると、岳斗は「任せろ」と胸を張った。
 長い指を交差し、ぱちんと鳴らす。
 と、智明は自分の見ているものを疑って手の甲で眼を擦った。
「え……」
 目の前には二人の岳斗が立っている。Tシャツに穴の開いたジーンズから今日はダンロップのスポーツシューズ。頭のてっぺんから足の先まで文字通りそれこそまったく同じだ。
 レジ横にいた黒猫が「にゃあ」と鳴いて二人に擦り寄った。
「ど、どっちかは偽物なのかい?」
「いいや、どっちもモノホンだぜ?」
 二人は同時にまったくシンクロして喋りだした。
「ま、分身の術ってやつだな」
「そうそう、これって便利なんだぜ?」
 お互いに顔を見合わせる。
「けど、言っとくが、一つ弱点があるんだ。力が半分になっちまうんだよな」
「なー」
「三人になることもできるけど、そうすると八分の一」
 うんうんと頷く二人に智明はかなり落胆した。
「それって……シッポがないときの君が二人ってことだろう? なんだか頼りないなあ……」
 岳斗(たち)は焦って説得にかかる。
「だ、大丈夫だよ、半分でもまあまあの力は出るぜ? それにすぐまた合体するからよ」
「なー」
 顔を見合わせる二人の岳斗に智明の落胆は確信に変わる。
「要するに君もちょっと不安なんだね」
 見抜かれて二人は「あんたって妙なところが鋭いよな」と渋い顔になった。
「それにしても」
 ふっと智明は気がついた。
「三人になると八分の一って、なんか計算が合わないような気がするけど。二の三乗ってこと? 残りの八分の五はどこへ行くんだよ」
「うぜーな、しょうがないだろう、そう決まってるんだから!」
 一人に戻った岳斗は歯を剥き出す。
「それより作戦決行はいつにする?」
 智明は顎に手を当てて考える。
「そうだな……自分の家に何か変なものがいると思うと安心して眠れないよ。なるべく早いほうがいいかな」
 ということで、明日、と決まったのだった。