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 意外にもかつて本郷は旅館の街であった。
 年号が昭和の頃は、夕暮れになれば憧れの街・東京へやってきた修学旅行の生徒たちが旅館の窓からすずなりになって辺りの景色を眺め、興奮して喋っていたものだ。その下をほんの数年前までは自分だって田舎の初心な高校生だった下宿学生が、「ふん、ガキども
め」といった余裕の表情で洗面器とタオルを手に銭湯を目指す。それが日常の風景だったのも今は昔。
 旅館の(そして下宿屋も)多くが閉館し、ビルに変わった。
 わずかに残った旅館も今は素泊まりのビジネス客と「日本らしさ」と「手軽さ」を求める外国人観光客が利用しているのみだ。
 そういった今もなんとか生き長らえている一軒に「夕陽(ゆうひ)館」がある。修学旅行の生徒たちばかりでなく、ビッグエッグが後楽園スタジアムだった頃はプロ野球選手も定宿にしており本郷という土地柄らしい旅館だ。
 「弓町(ゆみちょう)ハウス」のすぐ隣にあり、古い木造三階建ての本館に五階建ての新館(といっても高度成長期に建てられたものですでに古びた外観だが)が隣接し小さな庭もついている。「夕陽館」とは物寂しい名だが、昭和という名の付いたその昔、辺りに高い建物がなかった頃は三階の「特別室(デラックススイート)」から後楽園
のほうへと落ちていく陽が見えたことからついたらしい。今はすでに隣のビルのお陰で、小さな庭も日が当たらない。
 その隣のビルとの間の路地に智明(ともあき)と岳斗(ガクト)(の片割れ)は身を潜ませていた。
 もちろんそっくりの顔が二つあるところを近所の人及び実家の面々に見られてはまずい、との配慮からである。
 魔力で誤魔化すことも考えたのだが、なんといっても二人に増殖した代償に力が半減した岳斗を今一つ智明は信用していない。「双子の兄弟」などと言えば、お喋りの母親に言いふらされることは火を見るよりも明らかだ。
 そんなわけで、戸田が出かけたらただちに「弓町ハウス」へ踏み込めるよう、近くの物陰で張り込み中の刑事のごとく待つことになったのだ。
 朝からさんさんと日が降る爽やかな春の日で、どうも悪霊の探索には似つかわしくないのだが、
「でも暗くてじっとりと雨が降る日でなくてよかったかな。濡れながら待つのは嫌だしね」
 ぼそぼそと智明は目の前の岳斗二分の一に話しかける。
 岳斗その@を「弓町ハウス」に送り込んで待つこと五分。
 その@からの知らせを待っていたそのAがぱちんと指を鳴らす。
「上手くいった、連れ出したぜ!」
 暢気にゴミバケツの上に尻を乗せていた岳斗がぴんと背筋を伸ばした。
「おい、家を出たぞ! 今、駅の方へと歩いていくところだ……どっか喫茶店に誘うらしい」
 そのAの実況中継。その@とは距離が離れてもしっかり心で繋がっているのだった。
「どうやって戸田さんを誘い出したんだろう」
 感心する智明に岳斗はふふんと鼻を鳴らす。
「まあ、八百十九年間職業としてタラシをやってるようなもんだからな、俺たちは。それぐらい朝飯前ってなもんだ」
 それを聞いた智明が「悪魔もそう表現すると結構情けない商売だねえ」と返したので、岳斗は渋面を作った。
「ほっとけ! それより急ごうぜ!」
 その@と鉢合わせしないと確信すると、「突入!」と岳斗が飛び出す。智明もあとに続いたが、玄関前で夕陽館の女将(おかみ)と鉢合わせしてしまった。
「うわっ」
 まずい相手に会った、とは言わないが智明は岳斗の腕を捕らえて固まる。
 女将の光恵(みつえ)は昔ながらの竹箒を手にして玄関前を掃き出したところだった。
「おやまあ智明ちゃん、どうしたのこんなところに入り込んで」
 もうそろそろ七十に手が届こうという女将はまだまだ白髪を毎月しっかり染めて若々しく、背の低いちょっと太めの身体を粋な黄八丈に包んでいる。藍染めの前掛けにたすきがけ、結い上げた頭にはもちろん豆絞りが巻かれていた。
 路地から飛び出してきた隣家の息子に不審の目を投げかける。
 弓町ハウスと夕陽館はかつて土地の境界線を巡って争った過去があった。戦前からの家にありがちな諍いである。
 夕陽館新館は地下が厨房になっている。その地下部分が基準石を越えているということが落成してからはるかに時を経て露見したのである。
 それ以降、光恵と由希子の間には緊張感が漂っていた。当然、息子の智明にも厳しい視線が注がれる。
「み、光恵おばさん、うちの小太郎がさっきそこの路地に入り込んじゃったものだから」
「んまあ! 早く追い出してちょうだい!」
 光恵は犬派で猫嫌いであった。
「大丈夫、もうあっちへ行ったから」
 誤魔化して智明は岳斗の腕を引っ張る。
「早く、まずいよ!」
 ところが光恵が岳斗にはにっこりと微笑みかけたので智明は驚いて振り向いた。
「岳斗ちゃん、この前はありがとうね、またお願いするかもしれないけれどいいかしら?」
「いいっすよ、オバサン、いつでも呼んでくれって」
 今どきの若者言葉をいつも声高に非難している光恵だが岳斗にはなにも言わない。
「ええっ?」
 思わず岳斗と光恵を交互に見やった。
「岳斗が何かしたんですか、おばさん」
「いいえ、ねえ」
 光恵は鬢の乱れを指でかきあげながらしなを作り、岳斗に向かってポーズを取った。
「あのねえ、こないだ玄関の神棚に御神酒(おみき)を上げようとしてたんだけど、ほら、あたしって背が低いじゃないかい、踏み台で背丈を稼ごうとしたのさ、そしたら岳斗ちゃんがちょうど通りかかってね、ひょいとこう」
 手を上に伸ばし、今度はジェスチャーをする。
「置いてくれたんだよ、ねえ」
 はあ、と智明は感心して岳斗を見上げた。
「君っておばさんたちに評判いいよね、さすがだよ」
 これからは隣の家から苦情が出たときには岳斗に対処してもらおうと智明は思った。
「そう言われてもあんまり嬉しくないけどな、ま、それより急ごうぜ」
 どかどかと玄関から侵入する二人に、食堂から顔を出した由希子(ゆきこ)が眼を丸くする。
「あら、岳斗ちゃん、今出かけたのじゃなかったの?」
「お袋、ちょっと黙っててよ!」
 振り返りもせずに叫ぶとそのまま智明は階段を駆け上がる。
 柔らかな春の日差しが突き当たりの窓から廊下に差し込んでいる。丁寧に雑巾がけされた床は塵一つない。だがやはり戸田の部屋の扉からは先日智明が目撃したあの禍々しい煙が滲み出ていた。
 相変わらず気持ちの悪い「フズリ」と岳斗が呼んだ虫の姿も見える。
「ううっ、とにかくあの虫だけでもなんとかしてくれー」
 智明の悲鳴に岳斗は「Has!」と息を吹きかける。
 すると虫たちはそよ風に吹かれたかのようにふわりと舞い上がる。黒い身体はちらちらと漂う間に輝き始め、黄金の粒となって降ってきた。ひっくり返すと丸いガラス玉の中で粉雪が舞うという玩具があるが、智明は自分がまるでそのスノー・グローブの中にいるような気分になった。だが床に到達する直前、輝く粒は差し込む窓からの光にすうっと溶けてしまった。
「ええっ、みんな死んじゃったのかい?」
 ホロコーストまでは望んでいなかったのだが、と智明は心配そうな顔になって岳斗を見上げた。小さな頃から気持ちが悪いというだけの理由で蟻を踏み殺すようなことをしたことはない。
「いいや、大気に溶けてるだけだよ。そのうちまた固まって姿を現すさ。あいつらは四大精霊のうちの土と風とのあいのこだからな」
「だったらよかった……」
 岳斗はその間に戸田の部屋の前へ行くと、ノブに手を掛ける。
 すぐに扉が軋みながら開いた。
 部屋に足を踏み入れながら岳斗は軽蔑の眼差しを智明に投げかける。
「あんたさあ……こんなぼろっちいドア、俺の魔力を使わなくても力を入れれば開くじゃないか」
「ほっといてくれ!」
 窓のカーテンは閉められていたが、部屋の中は想像していたよりも綺麗だ。禍々しい黒い煙は足首から下の高さには溜まっていたが、部屋全体に充満しているということはなかった。ベッドの上にはジャージとブラジャーが脱ぎ捨てられていて、ちょっと智明は目のやり場に困る。それでも、
(それどころじゃないんだ!)
 慌てて辺りを見回す。
「あそこだ!」
 煙の源は押入れとわかった。
「なにが出るかな、なにが出るかなーっと」
 唄うように言いながら岳斗が襖に手を掛ける。
 さっと開けられたそこにあったものは。
 ごく普通の押し入れタンスだ。
「奥に何かあるぞ」
 岳斗はひざまずくと頭を中へ突っ込む。逞しい胸に抱いて持ち出したのは大きなガラス瓶だ。ちょうどラッキョウや野菜を漬けるような広口のタイプだ。
 だが透明の液体の中に浸かってるのは人間の生首だった。
「うう……」
 ある程度予想していたとはいえ、さすがに智明は目の前がすっと暗くなった。
 急いで首を振ると頬を両手で挟み、パンパンと叩いて気合いを入れる。
「おっ、意外と平気なんだな」
 岳斗は人が悪そうな笑みを浮かべる。畳に胡座をかくと膝の上に瓶を載せ、詳細に眺めだした。
「だいぶ慣れてきたよ、変なものを見るのは。正直(まさなお)さんの家でも見たし、ここんとこずっと君といるからね」
 それでもさりげなく少し離れたところに智明も腰を下ろす。なるべく瓶を直視しないようにした。
「俺の推理ではこれはラブホで殺された奴の首に間違いないな、うん」
 そんなことは言わなくてもいい、と智明は岳斗を睨んだ。
「他に猟奇殺人が起こったというニュースもないからね、そうだろうよ。そんなこと、君じゃなくたってわかるよ」
 ちぇっと岳斗は口を尖らせる。
「じゃあ、俺じゃなくちゃできないことを見せてやるよ。いいか?」
 胸に抱き込んでいた瓶を岳斗は身体から離し、畳に置いた。
「う……」
 生首の面相が白日の下に明らかになった。確かに本郷警察で見た手配状に載っていたあの顔だ。パンチパーマはゆらゆらと水藻のようにたゆたい、血の気のない青白い皮膚、半開きになった瞼からは白目が覗いている。
 岳斗はぱちんと指を鳴らす。
「Has!」
 すると透明の液体が沸騰したかのように泡立つ。そしてくわっと眼が開いた。
「げっ」
 さすがに智明は畳に腰を落としたまま、後ろへ身体を引いた。
「大丈夫だって、悪いことはしないよ。もう手も足も出ないからな」
「あ、当たり前だろう? 首だけなんだから」
 小声で返す智明に構わず、岳斗は生首に向かって「おい、話せ」と命じる。
「あの晩にあったことを」
 生首は首を横に二、三度振ると、口を開いた。
 ごぼごぼと泡が再び立ち、低い嗄れ声が漏れ出る。
「……あの晩俺は競輪場の帰りに居酒屋へ寄った」
 以下はかつては男であった生首の話である。
 男は逃亡生活にもめげず、置き引きやらこそ泥やらで金を得、それを酒と賭け事に蕩尽するという相変わらずの暮らしぶりであった。犯した罪を悔いる、などということは毛先ほども心の中に存在しない、典型的な悪人である。
 あの夜、上野のポルノ映画館で暇をつぶし、深夜になってぶらぶらと湯島のほうへと歩きだしたところ。
「……コンビニの店先に女がいた」
 女はノーブラでミニスカート、いかにも街娼といった雰囲気だった。
 上野駅の近辺は再開発やバブルの影響でだいぶ小奇麗になったが、不忍池から広小路の辺りにはまだまだ古いビルやら飲み屋街やらが残っている。時に湯島のほうを目指して小さな通りを一本入ると、成田空港から私鉄で一直線という交通の便もあって、今や海外からの出稼ぎの人々が溢れている。店の看板もハングル語に中国語・タイ語・アラビア語とここが外国なのかとまごうほどだ。輸入雑貨屋やお国料理の店に混じって中にはいかがわしい店もあり、それは歓楽街には付きものの風景なのだった。
 そして客を引く女の姿も。
 ポルノ映画で劣情をいたく刺激されていた男は現実にも甘美な経験を求めよう、という気分になった。
 男の言語感覚で表せば「イッパツやりたくなった」である。
 ただ外国人女性だったら誘うのも金の交渉も面倒だと思い、とりあえず近くに寄ってみた。
 幸いなことにその女は日本人だった。
 男は誘い、女は頷いた。
 女に金を払う余地はまったくなかったが、男は躊躇すらしなかった。
 なんとなれば、
「どうせ女なんてイッパツやったあとちょいと殴ってやればひーひー泣いてこっちの言うことを聞くもんさ。○○、××……、俺は○○、××……」
 ここで生首は偏見に満ち満ちた女性に対する差別発言をひとしきりわめく。
「うわ、フェミニストの人には聞かせられないね」
「まったく死んでも悪い野郎だな」
「ええっ、悪魔のくせに」
「あのねえ、俺らは悪魔だけど、いい・悪いの区別はつくの! ただ、悪いのが好きなだけ!」
 どーゆー理屈だよ、と智明が首を傾げる間に岳斗はまた指を鳴らす。
 すると男の声が裏返って喋る速度が早送りのように上がった。
 いよいよ肝心のところになるとまた速度が元に戻る。
「……で、ホテルに入ったのさ。そいつは服を脱ぐとすげぇ○○……」
 今度は普通の人だったらとても恥ずかしくて口に出せないようないやらしい単語が飛び出した。だが岳斗はこちらは聞く価値があるとそのまま耳を傾ける。
「ふんふん、へーっ」
 聞いていた智明はなにやら居心地が悪くなってきた。
 なにしろこの最低男とベッドインした女性はあの戸田に間違いないのだ。
(戸田さんのプライベートだもの)
 心は戸田でないかもしれないが、身体は戸田なのだ……「おっぱいがどうのこうので、揉むと」などということを聞いてしまったら、今後は顔を合わせづらくなる。
「ちょっと、ここもスピードを上げてくれよ」
「ちぇっ、しょうがねーなー」
 そうこうするうちに話はさらに核心に近づく。
 ベッドに入っていよいよという時になって女が「お前みたいな男を捜していた」とふっと漏らした。
「お前は私の夫にそっくりだ。横暴で女を端女(はしため)としか思っていない。いや、人間扱いするなど考えたこともない。お前こそふさわしい」
 何を生意気なことを、いっぱつ殴って黙らせよう、と男は腕を振り上げた。
 だが女は人間離れをした力で反対に男を押し倒し、馬乗りになった。
「そして俺の首に手をかけ……」
「うわっ、そこから先はもういいよ!」
 ちぇっとまた岳斗は舌打ちする。
「こっからが面白いのに」
 生首も黄色いヤニに染まった歯を剥き出して智明を睨んだ。
「もっと俺に喋らせろ! あのクソアマを殺してくれ! 俺の敵を討ってくれ!」
 今度は聞くに耐えない下品で乱暴な罵りが始まり、智明は、「殺されちゃったことは気の毒だと思うよ。でも君には悪いんだけれど、同情心が全然湧かない」ときっぱり告げる。
「同感だな」
 岳斗は指を鳴らす。
 ごぼごぼとまた瓶の中が泡立ち、生首は瞼を閉じた。
「さ、これからだ、どうするかな」
 押入れを開け、岳斗は瓶を元どおりにしまう。
「普通なら警察に通報するところだけれど……」
 畳に胡座をかいたまま智明は迷っていた。
「戸田さんがやったといっても、あれは戸田さんじゃないし。でもそんなこと、誰も信じないだろうな……」
 それに「生首の見つかった下宿屋」などとTVのワイドショーで放映されたら。
(あのラブホテルの前に群がっていたようなのが、うちにも来るんだ!)
 それはまずい!
「うち、もう下宿屋なんてやってられなくなっちゃうよ!」
「だな。生首のあった部屋なんて誰ももう借りないだろうし」
「絶対駄目だ、それは! なんとかしなくっちゃ!」
 一番いいのはこの瓶をこっそり始末することなのだが。
「問題は戸田さんに憑いた悪霊がなんでこの首を隠し持ってるかだよ……」
 たまたま殺してしまっただけなら首をわざわざ部屋に持ち帰ることもない。
 どころか証拠になるのだから、持ち帰るほうがおかしい。
「だな。なんかあるぜ。おっと!」
 岳斗は急に話すのをやめ、立ち上がった。
「ここから出ようぜ! 戸田が帰ってくる」
 その@からの報告があったのだった。


「懐古堂」に帰ると、すでに戸田と別れたほうの岳斗が戻っていた。
 その@とそのAは智明の見ている前でまるで鏡像が本物に溶け込んだかのように一体化する。合体すると、智明に「よう、すげーことが判ったぜ」と得意げに報告する。
「なんだよ、で?」
 レジの椅子に腰掛けると智明は期待に満ちて見上げる。
 岳斗はピンクの舌で唇を舐めると腕を胸の前で組み、いやらしい目つきになった。
「あの戸田って女は処女だぜ! 今どき珍しいな、もう絶滅しかかってるのにさ」
「ええっ、そんなことしかわからなかったのか?」
 あんなに苦労して、しかもこっちは薄気味の悪いものと一緒にいたのに!
 絶句していると、岳斗は「悪魔や死神は処女には弱いんだよ」と弁明した。
「何しろ地獄に堕ちて来るような奴はおおかた処女じゃなくなっちゃってるしよ」
 そりゃそうだ、と智明は思う。悪魔はわかるが、
「死神もかい?」
「死神の奴らもさ。昔は結核なんかの病気で処女のまんま死ぬ奴が多かったがな、今どき処女で死ぬ奴なんてめったにいないんだって。戦争なんかじゃ若い女は確実にレイプされるしな。ほんと、ニンゲンって悪魔だよ」
 つくづく残念そうな岳斗に、智明は「その通りだね」とも言いづらくうんうんとうなずく。
「まー、戦争があっと避難民は出るけどな、けどそんなんで飢え死にするのってたいがいジジババとガキだしな。

ババーは勘弁だしんだのがガキだったら処女に違いないけど、俺ら、ロリコンじゃねーしよ。つーか、きょうび女子高生だって六十パーセントは経験ずみだしな」
 あまりにも酷い論調ではあるが、事実でもある、と智明は不承不承同意する。
「そ、それはそうだね……確かに……」
 それに、と組んでいた腕を解くと両手を胸に当てた。
「あいつホルスタインなみの巨乳なんだぜ? いいなあ、俺、ぺーぺーだった頃、乳牛のおっぱいにしがみついて乳の出を悪くしてたんだ。ロシアの大地でね……」
 ふと岳斗は遠い目になる。
「昔を思い出して懐かしくなっちゃったよ。あと、農夫の鎌の切れ味を悪くしたりとかな、けけけ」
「君ってつまらない悪さをしてたんだね……やっぱ、パシリだったんだ」
 呆れる智明に岳斗は「ほっとけ」と口を尖らせる。
「でもまあ……戸田さんがバージンでも驚かないけど……あのいつものスエットの下に巨乳があったなんてちょっとびっくりかな?」
 それにしても、と岳斗を睨む。
「僕と一緒にいた片割れは生首を喋らせて、いろいろ聞き出したよ? 戸田さんには魔力を使って喋らせられなかったのかい?」
 うっと岳斗は言葉に詰まって視線を逸らした。
「それがさ、なんか戸田って男に対して恨みがあるんだな。あの女に憑いてる霊もそうらしくてさ。俺に聞えてくる心の中の声ときたら男に対する罵詈雑言だけでさ……そうとう霊も男を憎んでるらしいけど、増幅しちゃって、他のことがまるで見えてこなかったんだよ」
「まあ魔力が半減してたから仕方がないかな……」
 戸田が男に鼻も引っ掛けない、というのは知っていたが、憎んでいるとは……。
「そう言えば研究室で陰口を叩かれる、とかこぼすこともあったしな……セクハラされるから巨乳が目立たない服にしてたのかも」
「そうそう、聞えてくるのは霊のほうの(男なんかみんな殺してやる)とかいう声なんだけどさ、時々(科学者が女は子宮で考える、なんて言うんじゃないよ、このボケ)とか聞こえてたぜ」
 岳斗は言いながら、ポットの湯を急須に注ぐ。自分の失態を償おうと智明に茶を運んだ。
「飲めよ、な?」
「あとは何を話していたんだよ? 結構長い間、喋ってたじゃないか。まさか巨乳に見惚れてただけ?」
「何をって世間話かなー」
 自分用湯飲みで茶を啜りながら岳斗は答える。
 戸田をうまうまと誘い出した岳斗は、本郷通りにある古い喫茶店へと出かけたのだった。
 ユトリロやらマチスやらの複製絵画が壁には飾られ、長年に渡って磨かれた木の床は油が染み込んで黒光りしている。BGMはモーツァルトだ。漏斗のような長いガラス管で作る水出しコーヒーがその店の名物で、エスプレッソ用の小さなカップに濃いコーヒーが運ばれた。
 飲んでいるとふいに戸田が「昔コーヒーは悪魔の飲み物、と呼ばれたんですってね」と言ったので、ちょっと岳斗はぎょっとした。
 目の前の戸田の顔を窺ったが、しらっとしている。
 戸田は一口飲むとぴったりしたTシャツを着た胸を両手で抱える。テーブルに身を乗り出し開いた襟ぐりから深い谷間を見せたので、岳斗はそちらのほうへ視線を移した。
 わざとらしい仕草だがここから目を離せる男も悪魔もいないだろう。
 そしてそのあとは、
「逆にいろいろ聞かれちゃったよー。どこで働いているのとか、なんであんたと知り合いなのとかさー」
「まさか、悪魔なんて言わなかったろうね!」
 いや、と首を振って否定する。
「女は話し好きだからな。猫のことからあの羽山って奴のことまでさ。今、バイトであんたと一緒にあの博物館で本の整理してるって言ったら、ひどく驚いてたぜ? やっぱ、戸田って変わってるよな、長年本郷に住んでるのに刺青博物館のこと、知らないんだもの」
「あのね……あそこのことはなんていうか、この界隈ではタブーなんだって。戸田さんみたいに下宿と研究室の往復しかしない人は知ってるはずないよ」
 岳斗は眼を剥いて「もったいない」と叫んだ。
「俺だったら入場料取って、変態に見せるけどな。儲かるぜ?」
「はあ、もうしょうがないなあ……他にわかったことはないのかい?」
 言いかけて智明は自分ではっと気づいた。
「あの生首が言ってたよね、『お前は私の夫にそっくりだ』と言われたって。その霊って旦那さんに恨みを持ってる人じゃないかな?」
「それぐらいじゃ茫々漠々としてあんまり手がかりにはならないなあ。だいたい、旦那に恨みの一つも持ってない奥さんなんていねーと思うぞ?」
「そ、そのとおりだねえ、さすが悪魔」
 あのなー、と岳斗は呆れ顔になる。
「悪魔じゃなくてもそれぐらい、常識だって」
 岳斗はまた腕組みをして顎を引き、真面目な顔になった。
「あの生首と女は続けて見張ろうぜ」