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 下宿館「弓町(ゆみちょう)ハウス」は古くはあるが残念ながら建築学的に意味があるとは言えない。下宿屋造りとでも言えばいいのだろうが、ごく一般的な日本家屋で単に部屋数が多いだけだ。
 智明(ともあき)の部屋は下宿部屋のある二階への階段のちょうど裏側に当たる。部屋の中には中学時代から使っている布製衣装ケースと、祖父が使っていた文机が置いてある。壁際に並んだ本棚以外には、布団をやっと敷くスペースしかない。狭いが日中は店で過ごしているので、寝るだけだったら不便は感じなかった。中学・高校に通っていた時も勉強は叔父のところでやっていたので、今まで通りと言えよう。
 その夜も夕食後、店へ出かけて遅くまで本の整理をし、部屋に帰ったのは真夜中過ぎだった。いちおう受験生なのでしばらくテキストを紐解く。
 勉強を終えると布団に横たわって本を読むことにした。手にしたのは羽山邸から持ち帰ったエミール・ゾラの本だ。パリの百貨店を舞台にした社会風俗小説で、
「すごいなー、今の大量消費社会を先取りしてたんだな」
 三十分ほど目を通すと読み差しの本を枕元に置いて、蛍光灯のスイッチから繋げた紐を引く。
 豆電球だけつけたままにして眼を閉じた。
 しばらくすると畳をなにかが這っているような音がする。
「また精霊でも出てきたのかな」
 もう今日は生首も見たし、なまじのものでは驚かないと智明は無視して寝ることに決めた。
(そのうちいなくなるだろう)
 だがずるずる、べたべたというような不快な音はなかなかやまない。しかも一匹(もしくは一人?)ではないようだ。
 そのうち「ふーっ、ふーっ」と生臭い息が顔にかかった。それだけではない。
 ねっとりとしたものが布団から出ている腕やら首やら肩やらに触れる。
 瞼を開けるのはいやだったが、ここにいたっては仕方なく智明はなにが部屋にいるかを見ることにした。
 うっすらと開いた瞼から飛び込んできた映像は、生首と同じくらい気味が悪い衝撃的なものだった。
「え……ええっ」
 ここに警官がいたら、この精霊たちと一緒にきっと自分も「公序良俗に反する」罪で逮捕されると確信した。
 もっと簡単に言えば「猥褻物(わいせつぶつ)陳列罪」だ。猥褻なものを部屋に飼っているという。
(冗談じゃないっ)
 下宿館「弓町ハウス」の「受験に失敗した」長男が「猥褻物陳列罪」でしょっぴかれた、なんてことになったら。
(もう本郷には住んでいられなくなるっ)
 いつか本で読んだことがあったっけ。そう、登場人物の一人が、全裸にコート、首から銀の笛を下げ、デパートの結婚式用引き出物売り場を歩き、笛を吹く。新妻にならんとしている妙齢の女性とその母親たちの視線が集まったところでおもむろにコートの前を開ける。
 そういった変態と同じになってしまう!
 竹箒を持った隣の「夕陽館」の女将が道行く人々を呼び止め、「あそこの坊ちゃんはね」と囁くシーンまでが一瞬のうちに頭に浮かんだ。
「で、出ていけっ」
 叫んで腕を振り回す。
 いや、そのつもりだったが、指の一本も動かせず、唇からはまるで音が発せられなかった。
 異形の精霊たちはわらわらと智明の身体の上に載り、さらにまた乗り越えて反対側へと下り、なにをやっているのかというと、ところかまわず目合(まぐわ)っているのだった。
 そして精霊の形は男女の性器そのものなのだ。かなりリアルで大きさもおおむね実物大である。
「じょ、冗談じゃない、気持ち悪いっ、だ、誰かっ、お袋っ、親父っ、正直さんっ」
 声にならない声で智明は叫んだ。
 すると。
「おい、俺の名前をなんで呼ばないんだよー」
 暢気な岳斗(ガクト)の声が頭の上から降ってくる。
「が、岳斗? 君かい、どこにいるんだ」
 豆電球だけついている天井から下がった蛍光灯のカバーになにやら黒いものが見える。
 薄暗がりに目を凝らすと、逆さにぶら下がった蝙蝠(こうもり)だ。
「君か?」
 蝙蝠は小さな翼を振って見せた。
「岳斗、この気持ち悪い精霊はなんだい?」
 顔のすぐ脇で合体している精霊を気味悪そうに眺めながら智明は必死で声を出した。
「こいつらは淫夢魔(インキュバス)っていうんだ、まあ、俺の同胞みたいなもんだな、だいぶ下等だけど。あっ、この雌のほうはスキュバスってんだ」
「君の仲間ならすぐ、消してくれよ!」
 蝙蝠は面白そうな声を出す。
「まあ、ちょっと待てよ。なんでこいつらがここに出てきたか、調べる必要がある。普通淫夢魔は人間に取り憑いて精を吸い尽くすんだけどさ、あんたは俺が護ってやってるから大丈夫だって」
「じゃあ、せめていやらしいことはさせないでくれよ!」
 蝙蝠はキキキと笑った。
「いいじゃないか、智明、あんただって童貞でもないんだろ?」
 いや、実は童貞だった。だがそんなことは告白できない。焦って叫ぶ。
「そうじゃなくて、露骨で気持ち悪いんだもの!」
 顎の傍に雌淫夢魔(スキュバス)がしゃかしゃかとよじ登ってくる。
 そのあとを雄淫夢魔(インキュバス)がいそいそと追ってくる。胸の上で堂々と合体すると雄は前後に動き始める。ふうふうと色っぽい声が雌から上
がり始めた。
 それをきっかけにそこここからうふんあは
んというような喘ぎが聞こえだす。
 男だからアダルトビデオぐらいは見たこともあるし、ちょっと見て欲情もするけれど。
 でもこんな気持ち悪い精霊が合体しているのを見ても、吐き気しか感じない。
「堪忍してくれよ……」
 智明が呟いたその瞬間。みしみしと階段を降りてくる音が響く。廊下の軋みは智明の部屋の前で止まった。
「誰か来る!」
 蝙蝠はさっと蛍光灯から羽ばたいて窓のカーテンの陰へと隠れた。
「一人にしないでくれよっ」
「大丈夫、見張ってるからさ」
 相変わらずの金縛り状態でいる智明は、仕方がなく布団の中ですうっと襖が開くのを見守った。
 現れたのはすけすけのネグリジェを着た戸田である。
「ええっ」
 眼を丸く見開いて固まっている智明に戸田は近づき、腰を落として布団の上に乗った。
「うそ……」
 戸田は妖艶な笑みを浮かべ、舌で上唇を舐める。
 そして低い声で囁いた。
「智明さん、あなた、羽山さんのところで働いているんですって?」
「は、はやま?」
 名前を聞いて顔が一瞬浮かばず、智明は聞き返す。
 戸田は答えずに上体を屈ませる。
「う、うそっ」
 岳斗がホルスタインと評した大きな胸が襟ぐりの開いたネグリジェからこぼれ落ちんばかりに覗く。
 薄暗がりにぼんやりとソフトフォーカスで浮かび上がり、智明はこんな状況でも胸がドキドキしてきた。
 しかもなぜか身体が痺れてきて、指一本動かせなくなった。
「智明くん、お願いを聞いてちょうだい」
「な、なんですかっ」
 戸田は「うふふ」と笑う。
 智明の上にまたがると、真っ赤な唇をぺろりと舐めた。
「可愛い坊や……お姉さんに食べさせてよ」
「じょ、冗談じゃありませんっ」
 必死で智明は近づいてくる顔を避ける。
「なによ、嫌なわけ? あたしじゃ気に入らないの? あんた童貞でしょう? 童貞を捧げるのにあたしじゃ不満?」
 戸田が嫌いというわけではないが……。そういう問題ではない。
(冗談じゃないっ)
 そう、童貞を捧げるのなら好きな人に。
 密かにずっと思っているあの人に。
 そんなことは見果てぬ夢だけど。
 だからといってこんな状況では絶対に嫌だ!
「いえっ、というか、はいっ、じゃなくてっ、嫌ですっ」
 ふふんと戸田は鼻を鳴らす。
「まあ、いいわ。じゃあ、今度本を整理するとき、私も一緒に連れていってね、いいわね」
 お願いではなくて命令だということが智明にも理解できた。
 ここで嫌だと言えば、とんでもない目に遭う、というのも。
 必死でわずかに残った力を振り絞り、首を縦に動かす。
 戸田はあっさりと立ち上がる。静かに襖を開けて出ていった。
 淫夢魔たちもやることをやって満足したとみえ、ごそごそと暗がりに姿を消す。
 ヒューッと口笛が聞こえ、カーテンの陰から蝙蝠がばさばさと羽ばたいてやってきた。
「いやー、見ものだったな」
「岳斗っ……なんで助けてくれなかったんだ……食われちゃうかと思ったよ」
 恨みがましい智明の声に蝙蝠はまた翼を振る。
「だからさ、あの女の目的を探ろうと思ってさ」
 岳斗は人間の姿に戻ると、にやにやしながら智明を見下ろす。
「あんただって嬉しかったんじゃないの? おっぱいに見取れてたじゃないか」
「そんなこと、してないよ!」
 岳斗は懐疑的な目で智明を見下ろす。
「そうなのか? 男だったらあのおっぱいに見とれないはずないんだけどなー? ひょっとして男の方が好き、なんてな?」
 智明はぎくりとして岳斗から目をそらし、叫んだ。
「うるさい、とにかく身体を動けるようにしてくれよ!」
「はいはい」
 岳斗が指を鳴らすとなんとか智明は身体を動かせるようになった。
 全身に力が入らないものの、乱れたパジャマを着直す。布団の上に胡座をかくと非難の目を岳斗に向ける。
「本当に君、僕に尽くす気があるのかい?」
「あるってば。ま、俺を信じろよ」
 まるで重みのない口調で言うと、岳斗はくすりと笑った。
「もういいよ、とにかく今の見てて、あの戸田さんについてる悪霊がなにをしたいかわかったのか?」
 岳斗も布団の上に胡座をかいて座る。
「なんか、羽山邸に連れてけとか言ってたよな。本がどうとかともさ」
「そんなの、僕だって聞いたよ!」
 智明は目の前の端正な顔を睨んだ。
「あのさ、ひょっとしてそれって君が昼に戸田さん話した内容じゃない? 君が情報を漏らしたお陰で僕が大変な目に遭ったんじゃないか!」
「そういや、そうかもなー」
 まるで反省のない様子に「やっぱ、魔力が半減した君って全然役に立たないんだな」と言い放つ。
「六百年間、うだつが上がらなかったのも当たり前だな」
 むっとして岳斗は「なんだよ、それ」と顎を突き出した。
「だいたい僕のお陰で魔力を取り戻したくせに。お礼どころか君のせいで僕は大変な目に遭うとこだったんだぞ?」
「なんだよ、別に襲われたわけじゃないし。あいつに食われたってどってことないだろ? つか、めでたく童貞喪失とか」
「うるさい!」
「あっ、やっぱ童貞だったのか、今時めずらしーなあ」
「うるさいって言ったろ!」
 厳しい声で岳斗を遮ると、智明は怒りの目を向けた。さっきの気持ち悪い夢魔たちのことまでが思い起こされ、怒りの導火線に火がついた。
「君は本当に悪魔だよ! 君のせいで変な事件は起こるし、戸田さんはおかしくなっちゃうし、うちには生首が持ち込まれるし! 最悪だ!」
「悪かったなあ」
 岳斗は頬を紅潮させ言い返す。
「あんたがもう少しがまんすりゃ、あの女の心を読んでいろいろ探り出せたんだぜ? 俺のせいにするなよ! つか、いい気持ちになれたんだぜ?」
「ふざけんな!」
 智明の投げた枕が岳斗の顔面を直撃した。
「いってえ……」
「君にはもううんざりだよ! お礼なんてしなくていいから、もうどこかへ行ってくれ! どうせ役に立たないんだから!」
「けっ! ああ、お望みどおりいなくなってやるさ!」
 言葉が終わらないうちにしゅるんと姿が消える。小さな蝙蝠は羽ばたいて部屋の隅の暗がりに消えていった。
「くそ……」
 まだ痺れている身体を引きずりながら智明は布団に潜り込んだ。
「あいつの力なんか借りるものか! 自分一人でなんとかしてやる!」


 翌朝、中庭に面した窓から入る陽に智明は起こされた。
「うわっ、もうこんな時間か!」
 暖かな春の日差しが降り注ぎ、昨夜淫夢魔がこの部屋にいたなど考えられない。
 唯の夢だったと信じたいが、よたよたと布団から出ると、まだ身体が痺れているのに気づく。
「ううっ、きっと岳斗がいなかったら死ぬまで精魂を吸われちゃったかもしれない……」
 ぞっとしながらも自分の部屋から恐る恐る食堂へと赴く。
 下宿屋の中に人の気配はなく、智明は戸田と顔を合さずにすんだのでほっとした。
 身体がだるくて本当は予備校へ行く気は起きないのだが、このまま部屋にいてまた戸田が入ってきたらどうしよう、と智明は思う。
「とりあえず、店に避難しよう」
 外へ出ると大横町(おおよこちょう)通りは昨日と変わらぬ風景だ。
「智明さん、智明さん、どこへ行くの?」
「あの悪魔のことなんか信用しちゃ駄目よ?」
「あいつはお調子者で便りになんかならないんだから」
 風に揺れる銀杏の枝からさらさらという葉擦れとともに密やかで軽やかなお喋りが聞え、見上げると緑の葉と思われたものは蝶なのだった。そして可愛らしい少女の顔を智明に向けていた。みっしりと枝に止まり、風が吹くとともに羽ばたいて陽の光を浴びながらどこかへと飛んでいく。
「だめ、だめよ、あんな奴信じちゃ」
「僕だって信じてないさ」
 呟くと懐古堂へと足を早める。
 店のシャッターは閉まっていた。
「あいつ……」
 三階へ駆け上ると誰もいない。部屋の中はがらんとしていて岳斗のいた痕跡もない。
「そうか……出ていけって言ったんだった」
 別に構わないさ、と智明は心の中で毒づいた。
 今までたった一人で店番をやっていたのだから、別に人手がなくなっても困ることもない。予備校を休まなきゃならないが、今日はなんだか力が抜けているのでそれも助かる。
「ああ、すっきりした。あいつがいると煩いし、仕事がはかどらなくて困ってたんだ」
 うそぶくとしんと静まり返った店先で淡々と仕事をこなす。
 羽山邸から持ち帰った本のかなりが整理されてきている。
 多くは医学関係の本で、買い求めたときには最新の情報だったろうが、今や「医学史」といった内容だ。
「あまり需要があるとは思えないな……」
 次に多いのが十九世紀末に流行したオカルト関係の本だ。「動物電気」やら「降霊術」やら、かなりの数に昇る。
 書名・著者名・内容などをパソコンに打ち込む。きょうびは店先で漫然と客が本を手に取るのを待つよりも、ネットのサイトに情報を流したほうが遥かに引きが多いのだ。
「オカルト関係の本なら買い手がつくかもしれないな」
 羽山邸からもう少し本を取ってこよう。
 そう思った瞬間、昨夜の戸田の言葉が蘇った。
「そうだ、本の整理もしなくちゃならないけど……」
 部屋にあるあの生首もなんとかしなくてはならない。
 戸田に憑いた霊は羽山邸に興味を示していた。
「古本好きの霊かな……」
 そうとも思えないが、ついでに何が霊の興味を引くのか調べてみようと決心する。
 目の前の黒電話を取ると正直の携帯に連絡を入れてみた。
「また本の整理に来てくれるのか、ありがたいよ」
 正直は上機嫌で答える。
「伯母さんにおやつ、用意するよう言っとくから。岳斗くんと二人分だろ?」
 智明はちょっと不機嫌な声で「岳斗は行かない」と応じる。
「あいつ、出てったから」
「ええっ?」
 ちっと正直は舌打ちをする。
「しょうがないな、最近の若い奴ってなんでも長続きしないんだよな。あいつは結構見どころがあると思ってたのに、やっぱ駄目なんだな」
「いや、その……あの……」
 実は悪魔で、役に立たないから追い出した、とは言えず智明は言葉を濁す。
 すると正直は気を遣って「じゃあ、俺が少し手伝ってやるよ」と言葉を繋いだ。
「厄介物の処理をしてもらってるんだからさ、その代わり、五時過ぎでいいな? 授業が終わってからになるけど」
「えっ、もちろんだよ!」
 正直と会える。刺青博物館でなければもっと嬉しいのだが、この際そんなことは言っていられない。
 五時を回ったところで智明は店のレジに鍵をかけた。
「岳斗がいなくて唯一困るのは、店番を誰にも頼めないことだな」
 どうせ流行っている店じゃないからいいけど。今日も売上はほとんどなかったし。
「それにしてもあいつのやったことって、うちでただ飯を食ったことぐらいだな」
 シャッターを下ろしながら気づく。
「恩を返す、なんて言っておきながら……」
 でもそもそも悪魔なのだから、信じるほうが悪いとも気がついた。
 羽山邸の別館へ行くと、すでに正直が扉を開けて待っていた。
 傍にはセーラー服姿の菜摘(なつみ)もいる。正直と二人だけでは緊張しすぎるだろうから、まあいいか、と智明は思った。
 菜摘がひどく嬉しそうなので智明は首を捻る。すると菜摘は「えへへ、この博物館に入る機会はそうないからね」と言い放った。
「ええっ、菜摘ちゃん、この中のものに興味があるのかい?」
 まじまじと見る智明に菜摘は「だって、友達に話すネタになるもん」とけろりと答える。
「菜摘は文芸部だからな」
「ええーっ」
 だが、うん、と頷いた菜摘はこう続けた。
「こないだ高等部に新しく作ったんだ。つーか、単なる暇潰し部だけどね。あたしの好きなのはアニメだしぃ」
「え、菜摘ちゃんは本とか小説とか全然読まないのかい?」
「うん、でも副部長の園田って子と同じ学年の早坂はすっごく本を読むから、智明と話が合うかもね」
 女子高生と話をするのはあんまり気が進まない。
 どうせ「古くさい」と言われるのがオチだ。
 やれやれと首を振りながら智明は中に入る。
 春の陽はいつのまにか落ちて、唯でさえ照明の暗い室内はまるで地下墳墓のようだ。
 いつもと変わらず不気味な雰囲気なのだが、今日は静寂ではなく、なにやらたくさんの人の話し声が智明を出迎えた。
「え……」
 声のするほうを見るとぴたりと止む。智明が頭を巡らせるとスタジアムのウェーブのように、ひそひそ声は館内を一周した。
「だ、誰かいるみたいだけど?」
 先に中に入っていた正直が怪訝な顔で振り向く。
「は?」
「だって声が聞こえる……」
 正直は智明に近寄り、腰に手を当てた。
「何も聞えないぞ、風の音だろう? ほんと、お前って怖がりだなあ」
 菜摘にももちろん聞こえていないようで「はあ?」と智明を振り返る。
「なんかさあ、智明、ちっちゃい頃から変わらないよねー。ほら、ボールが間違えて入っちゃうと、ひんひん泣いて『取ってー』って言いに来たじゃない」
 過去の情けない姿を思い出し、智明は真っ赤になる。
「あとさあ、小学校のとき、いじめっ子に体育館の用具室に閉じこめられちゃってさあ、放課後、あたしとお兄ちゃんが助けに行ったこともあったよねー。あん時も怖くてわーわー泣いちゃってさあ」
「ううう……」
 菜摘と正直に助けられたことは事実だが……。そして鍵を開けてくれた菜摘に取りすがって泣いたことも事実だが……。正直にはそのあと「智明は全然変わっていないんだな」と言われ……。
 智明は必死で「昔のことじゃないか」と言い返す。
「別に怖がってなんかいない!」
 むっとして正直と菜摘を交互に見た
「風の音じゃないよ、あれが聞えないの? あんなにはっきり聞えるのに」
「ああ」
 けろっと正直は答えた。
(正直さんにはまったく霊感がないんだっけ)
 そして同じ両親からDNAを受け継いでいるその妹の菜摘にもないのは当たり前かもしれない。
 正直たちには事実聞えていないのだろうと智明は結論づける。
 それでも人の声は確かに陳列された標本の辺りから上がっている。
 智明はこわごわと近寄ってみた。
 智明が近づくと声はまたぴたりとやんだ。
(そう言えば……)
 岳斗とここへ来たとき、この標本の由来を話してくれたっけ。
(あいつの魔力のせいで何かおかしなことがまだ続いてるのかも)
 いなくなったにもかかわらず、さっきも銀杏の枝に不思議なものが止まって話しかけてきた……。
 目の前にはホルマリンに浸かり、心なしかゆらゆらと蠢いている人の脳がある。
 その隣には六本指の手首。
 その隣はどうも胎児らしい……。
 背筋を冷たいものが這い下り、智明は一歩後退りした。
 ふいに戸田の言葉が蘇る。
「私をあそこへ連れていってちょうだい」
 そう言っていた……。
(まさか、これに用があるのでは)
 どう見ても悪霊が古本を欲しがっているとは思えない。だが生首を後生大事に隠している悪霊だったら。
(こういった気持ち悪いものが好きなのかも)
 でもどうするんだろう? 集めて眺めるのが好き、とか? 何か悪いことに使うのか。それともネットオークションで高く売る?
(いや、それはないな)
 想像もつかなかったが、とにもかくにも悪霊の目的が少し見えたような気がした。
「ねえ、正直さん」
 振り返って訊ねる。
「これの由来みたいなの、わかるのかな?」
「曾(ひい)祖父(じい)さんのコレクションのか? いちおう科学者だったからな、なにか目録みたいなのがあると思うが」
 コレクションの載った机の奥には大きな戸棚が何台もある。
 正直はそれらの一つを開け、ごそごそと捜し始めた。
 手伝おうと傍へ行った智明はうっと後悔する。戸棚の中にもたくさんの標本が入っていたのだ。陳列しきれないため、中にしまってあったらしい。
 急いで退く。
「本当に曾(ひい)お祖父(じい)さんは変わった趣味だったんだね……」
「だからー、単なる変態だったんだって」
 傍で菜摘が呟き、智明にもそうとしか思えなくなってきた。
 やがて正直は埃を被った和綴じ本を数冊取り出した。表紙には黒い絹が貼ってある。
「これだ、これに書いてあるはずだ」
 ページを捲ると和紙に墨で細かな字が書き込まれている。なかなかの達筆だ。だが漢字に旧仮名遣いで暗い照明の元では読みづらい。菜摘も覗き込んで「うわ、外国語みたいだ」と感想を漏らす。
「これ、借りていっていいかな?」
 正直はあっさりと「いいよ」と答える。
「学術的に意味があるわけじゃなし。ほんと、羽山家のお荷物だよ。捨てるに捨てられないしね」
「だよね、生ゴミとして捨てるにはやばすぎるもん」と菜摘があとを続ける。
 確かにまだ古本のほうが使い道があるかもと智明も思った。
 何冊かをまた台車に載せて博物館を出ると、正直は「明日もここに来るかい?」と尋ねる。
「出来ればそうしたいんだけど……」
 じゃあ、と正直は大きな鍵を智明の手に押し付ける。
「明日、俺、実習があるから、一人で来てくれ。いいよ、勝手に入って」
「え、でも……伯父さんや伯母さんは?」
「伯父貴は今、学会で北海道にいるんだ。澄子伯母さんも祖母(ばあ)さんを連れて歌舞伎を見に行くから留守なんだよ」
 ほら、と正直はつけたす。
「伊豆の別荘から祖母さんが出てきてるから、伯母さんも忙しいしね」
 別荘に引退している先代の令夫人が久しぶりに東京に戻ってきているのだった。八十に手が届くという年齢にもかかわらず矍鑠(かくしゃく)としており、伊豆から出てくると歌舞伎だの宝塚だのと観劇に勤しみ、三越で買い物をして帰る。澄子夫人はお供で忙しいのだった。
 いくら知り合いと言っても、と智明は躊躇するが正直は「いいって」と手を振る。
(いや、一人だと怖いってこともあるんだけど……)
 手の中の鍵をもじもじしながら見ていると、菜摘が「怖いんだったら、あたし、つきあってあげようか?」と笑いながら言った。
「違うよ、だって僕は他人だし……」
「ここには何も金目のものはないしさ、鍵はお前に預けとくよ。それより、祖母さんに挨拶していくか」
 母屋にいた祖母の房江は正直に呼ばれ、いそいそと玄関に現れる。もう髪はすっかり白髪だが豊かで、パーマをかけて膨らませ、白い肌にはほとんど染み一つない。フリルのたっぷりついた白いブラウスに紫のビロウドのスカートを履き、品の良い老婦人だ。智明の顔を見て「まあ、大野さんのとこのぼっちゃんだったわね」とたいそう喜ぶ。
「悪いわね、あんな気味の悪いところに入って整理してくれてるなんて」
 丸い鼻眼鏡をポケットから出すとちょこんと鼻に載せ、博物館のほうを睨んだ。
「うちの人のお母さんも、あそこを嫌っていてね、ほとんど足を踏み入れなかったのよ」
 澄子と同じことを言う。
「それって……」
 母親の由希子がサーカスから買われてきたといっていた人かな、とちょっと智明は興味を持った。
 失礼かなと思ったがつい尋ねてしまう。
「あの……一代目の徳治郎(とくじろう)さんの奥さんって、ナイフ投げをしてたんですか?」
 んまあ、と房江は顔をほころばせる。
「そうなのよ、どうして知ってるの?」
 まさか「サーカスからお金で買われてきたとみんなが噂しています」とは言えず、「え、まあ」と誤魔化す。
「ええっ、ナイフ投げ? あたしもそんなこと知らない!」
 菜摘が興味津々という顔で房江を見る。
「あらあら、菜摘ちゃんにも話したことがなかったかしら? あがりなさい、ゆっくりその話をしてあげるわ」
 昔話ができると房江は浮き浮きして智明と菜摘を手招く。隣にやってきた澄子に呼びかけた。
「そうだわ、澄子さん、お寿司でも取りましょうよ。みんなで食べない? 菜摘ちゃんも食べるでしょう?」
「やった!」
 若い子と食事をするのは嫌ではない、しかも店屋物ならなおありがたいと澄子もニコニコして智明の手を取った。いそいそと菜摘と智明を玄関から迎え入れ、取り残された正直に気がついて振り返った。
「正直ちゃん、あなたもついでに食べていく?」
「ちぇっ、俺はついでかよ」


 お寿司を食べながら房江は機嫌よく話を智明に聞かせた。
「徳治郎さんはね、浅草寺(せんそうじ)の裏手にある慈愛病院というところで、今で言うボランティアをなさってらしたんですよ」
 羽山徳治郎は帝大のまだ一介の助手だった時分から、親友の経営する病院で診療を手伝っていた。一高時代からの親友はキリスト教者内村鑑三を師と仰ぎ、恵まれない人々のためにと私財をなげうって病院を建てたのだった。自身は信者ではなかったもの、その志に徳治郎は共感し、無給で患者を診療していたのである。
「そんなこと、してたのかー」
 正直が驚いて口を挟む。
「そういうこと、何も言わないんだものな、単なる変人かと思ってたよ」
「ていうか、変態」と菜摘はカッパ巻きを頬張りながら念を押した。
 孫たちの暴言に房江はやれやれと嘆息する。
「正直ちゃん、菜摘ちゃん、聖書にもあるでしょう? 左手に告げるなかれ、って。右手の良いおこないを左手は言われなくても知っている、つまり善行を言いふらす必要はないという意味なのよ?」
 さすが、育ちの良い房江の言葉である。正直は「畏れいりました」と首を竦めた。
 とにかく、と房江は話を続ける。
「今どきの若い人に言ってもわかるかしらね……智明ちゃん、ご存じかしら、凌雲閣(りょううんかく)といってねえ、日本初のエレベーターのある十二階建ての……」
 それぐらいは本好きの智明とっては一般常識だ。
「知ってますよ! 江戸川乱歩の小説にも出てきますし」
 明治十二年、浅草公園に十二階建ての赤煉瓦の高塔が建てられた。八階まではエレベーターが通じており帝都名物の第一と唄われた。だがその足元には私娼窟が広がり、社会の底辺に住む人々は金色に輝くその塔を羨望と諦観を持って見上げたのだった……。
 羽山徳治郎はその近くにある慈善病院へ毎週通った。
「それでねえ、浅草の辺りはいろいろ見せ物小屋が掛かっていたでしょう?」
 徳治郎の妻・フクは映画館やらダンスホールやらが店を連ねる歓楽街で射的場を経営していたのだった。それがどういう加減か、伝言ゲームのように口から口へと伝えられるうちに「サーカス」と変貌したのだろう。
「フクさんはねえ、とっても大きい人だったのよ? あのころで五尺五寸……」

「ええっ」
 メートル法で言えば百七十五センチだ。
 男勝りのフクは荒くれ者を向こうに張って一歩も引かず、その美貌は浅草でも随一だった。自身もナイフ投げを得意とし、「小柄(こづか)のおフク」と呼ばれ、時には見物客の前で和服にタスキがけをし、自慢の腕を見せることもあったそうな。
「ひょっとしてそれが徳治郎さんのハートに命中しちゃったわけですね」
 智明の言葉に皆がどっと笑う。
「そうねえ、そうかも。徳治郎お祖父さんは本当に変わった人だったからねえ」
「ていうか、変態だって」
 菜摘はやっぱり意見を変えない。
 とにかく羽山家当主はそのフクに惚れ、毎日日参して口説き落とした。そして周囲の激しい反対もものかは、祝言を挙げたのだった。
「徳治郎さんは自分が小さかったので、大きな女の人と結婚しようと思ってたんですって」
 あ、と房江はつけたす。
「正憲(まさのり)さんも小さかったので、大きな人をお嫁さんにしようと思ったのですけどね」
 房江も七十八歳というこの世代では背が高いほうだ。なるほどと智明は鉄火巻きを頬張りながら納得する。
「そのおかげで俺も菜摘も背が高いんだな」
 正直が口を挟んだ。
「その病院には娼妓(しょうぎ)やら博徒(ばくと)やら社会ではつまはじきにされているような人たちが治療してもらいに来ていたんですって。そういった人たちの背中に刺青が彫られていることも多く、それで刺青に興味を引かれたとおっしゃってたわ」
「そういうことだったんですかー」
 単に猟奇的趣味で刺青を集めたのではなかったんだ……。
 智明は考えを改める。
 隣でけろっとした表情で寿司を頬張っている正直と菜摘を見た。
(やっぱ、羽山家は昔から人が良かったんだな……)