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その夜、智明は自室の文机に目録を置いて、判読を開始した。
「(標本番号其(そ)ノ拾壱(じゅういち)……名人彫宇之作品也)うわ、これは刺青の解説だな」
かつては人間だったその刺青の主は「江戸彫勇會(ちょうゆうかい)ガ栗原政吉」とある。
栗原政吉はちゃきちゃきの江戸っ子で、彫勇會という刺青をした者たちの同好会の発起人であった。
「胸ハ二王・腕ハ風神雷神・内股ハ大津繪鬼ノ念佛・足ハ昇リ鯉降リ鯉……うわあ、ほぼ全身だあ、すごい!」
彫勇曾との名称は刺青をしているものは男の中の男と立てられる勇みの者だから、という意味らしい。だがその時代、刺青を纏った女も少なからずいた、とある。
確かに「標本番号其ノ参拾六」は女性で、「二匹龍ノオ若コト下谷大門町鳶頭半次郎ガ妻女」とある。
「背中ハ二匹龍、両腕ハ牡丹ニ獅子ノ圖デ其ノ牡丹ノ蕊ニハ純金ガ刺シテアル。股ニハ亭主ノ干支……へーっ」
気っ風のいい姉御が神社祭礼の際に片肌を脱ぎ、唐獅子牡丹を見せながら亭主の下で働く鳶職(とびしょく)たちに気合を入れている図が目に浮かぶ。
(菜摘ちゃんみたいな元気な女の人だったんだろうな)
薄気味悪いと思っていた刺青だが、こうやって由来を読んでいるとなんとなく親近感が湧くものである。
(それに女性のほうが痛みには強いから、もしかしたら刺青はあっているのかもな……)
捲っているとあの「六本指の手首」に行き当たった。
「(標本番号其ノ弐百拾参……アダ豊事(こと)足立豊平、仕立屋(したてや)銀次ガ乾児(こぶん))あ、これは知ってるぞ! 野村胡堂の小説で読んだことがある!」
仕立屋銀次、明治後期に全国展開した掏摸(すり)組織の大親分だ。銀次の名は当時の江戸っ子どころか日本人なら知らぬものはいない、という有名人であった。
目録によると「アダ豊」は六本指でそのことから幼い頃より苛められた。だが銀次に拾われ、掏摸の技術を教え込まれた。
他人(ひと)様から気持ち悪いと言われるこの指で、立派に生計を立てられるまでになったのだから捕まっても何をお天道様に恥じることもない、といささか開き直りとも思われることをのたまい、死んだらこの手首を保存してくれ、と天下の帝大教授に頼み込んだものであった。「時の警視総監の金時計も掏摸取った」が彼の自慢であったというプロの掏摸である。
(あ、でも徳治郎さんは慈善病院で患者を診ていたんだっけな……このアダ豊という人ももしかしたら徳治郎先生の患者さんだったのかもしれない)
白いカーテンの下がる病室で年老いた掏摸が傍らに佇む徳治郎の手を取り、いまわの際の頼みをしている図が浮かんだ。
(徳治郎先生って、きっと貧しい人たちに慕われたんだろうな……でなきゃ、自分の手や皮膚を託したりしないだろうな……)
目録を前に智明は感心して溜息をつく。
「はー、日本の歴史が詰まっているんだなー」
だが犯罪に絡む標本も多く、中には陰惨なものもあった。
「標本番号其ノ七拾八……」
それは保険金目当ての殺人事件に関わるものだった。
父親も長兄も医者という男で、毒物の知識に長けており、妻と妾を相次いで保険金目的に殺していた。うまうまと保険金をせしめ、なんら疑いを持たれなかったことに味を占めて、新たな生け贄を求めて「秘書入用。給料出す」という新聞広告を掲載。やってきた応募者の中から一人を選び、毒入り菓子を食べさせた。
標本は掘り出された遺体の骨で、旧帝大の法医学教室によってここから亜砒(あひ)酸(さん)が検出され、男は死刑となったのだった……。
そこまで読み進んだところで気分が悪くなり、ついにギブアップする。
(なんだか日本犯罪史を読んでるみたいだ……今も凶悪な犯罪が多いけど、昔も結構あったんだな)
傍らに置いてあった缶ビールを一口飲む。
「アルコールを少し入れないとやってられないや!」
未成年だけどこれぐらいは許してもらおうと智明は勝手に決める。わずかばかりのアルコールで気分が良くなる性質(たち)だ。飲み干すと直ぐに眠気が襲ってくる。
「もうこれで終りにしよう、続きは明日だ」
スイッチに繋げ足した紐を引くと智明は布団に潜り込む。重くなった瞼が閉じるのに任せた。
まどろみに落ちてどのくらい経ったのか。
ふと智明はなにやらまた生臭い息を間近に感じた。それだけではない、昨夜と同じに手や足の上を柔らかいものが這っている。窓も開いていないのに、ひんやりとした冷気が身体を包む。その冷気は饐えたように生臭い……。
「えっ……まさか……」
嫌な予感は的中していた。
こわごわと薄目を開ける、と昨夜いた淫夢魔たちが布団の周りをぞろぞろと這っている。それだけではない、暗がりに女が立っていた。
「と、戸田さん……」
戸田は真っ赤なワンピースに身を包み、恐ろしい眼で智明を見下ろしていた。
「鍵はどこ? 預かっているんだろう、今日も遅くまで行ってたからね」
「えっ?」
なんのことか、という顔をすると戸田は智明の上に馬乗りになる。
「男など、みんなこれが好きなんだ」
歯を剥き出してさも憎々しそうに吐き捨てる。
「教授の奴も見かけは紳士のくせして、差別主義者だ!『女は子宮でものを考える』だと?科学者のくせしやがって! だったら男はペニスで歩くのか!」
罵られても「はい」と言うわけにはいかず、かといって「すみません」と謝るわけにもいかず、智明は黙って罵られることにした。
すると戸田(の顔をしたもの)はいきり立つ。
「なんとか言ったらどうなんだ! 都合が悪くなると黙るか殴るかするのが男なんだ!」
「そ、そんな……」
「そのくせこちらが喋らないでいると『更年期か』などと抜かして、セクハラだ! だったらお前は前立腺肥大だっ、頭皮毛根無力症だ! メタボ腹だ!」
どうも悪霊と戸田自身の双方が代わり番こに罵っているようである。
(岳斗が言ってたっけ、戸田さんはすごく男を憎んでいるって……)
今の罵り方からすると、研究室でかなりのセクハラを受けている様子だ、と智明はこんな状況でもちょっと同情した。
「賭け事で私が蓄えた金を使い果たすし、女は買うし、死んだほうがいいんだ!」
戸田は紅を塗りたくった唇を歪める。真っ赤な舌をべろりと出した。
「ええー?」
「うふふふ……」
馬乗りになった戸田は身体を屈めて下へと移動する。
「や、やめてくださいー、それだけはっ」
初めての相手は好きな人とがいい……たとえ見果てぬ夢であろうと。
必死で身体を捩り、戸田の下から這い出す。
「いやなのか」
「い、いやですっ、ぜったい」
「じゃあ、代わりにこいつらに食われるがいい」
何をするのか、と智明は背筋を硬直させる。しかし次の瞬間、背筋を硬直させるのが早すぎた、と後悔した。
どろりと黒い粘液のようなものが戸田の口から流れ出る。だが流水形に滴ったそれは液体ではない、確かに固体だった。
真っ黒で巨大な滴の形をしたものは、ぼたりと智明の腹に落下する。冷たい感触に智明は悲鳴を上げる。
しかし再び、悲鳴を上げるのが早すぎた、と後悔した。
腹の上に載ったそいつは、ふるりと先端を持ち上げ、辺りをうかがうかのように左右に首を振る。先端には明らかに丸い鰻のような口と尖った歯が見えて、だが目の位置にはなにもない。
「ぎゃーっ」
くねくねと前進を始めたそいつは明らかに蛭の一種に見えた。
「と、戸田さん、やめてくださいっ」
淫夢魔たちがわらわらと傍へ寄ってくる。いやらしい笑い声が響いた。戸田の口元を覗き込む奴、智明の顔を覗き込む奴。煽られて合体する奴。
その間にも蛭は智明の顔へと着実に近づいていく。
「こいつはお前の口から体内に入って、胃袋を食い破るよ、それでもいいのかい?」
「それもいやですっ」
「だったら私の訊くことに答えるんだ」
いやもおうもない、智明は必死で首を縦に振る。近くまで到達していた蛭が首を伸ばす。ありもしない眼でじっとこちらを窺っているような気がして、智明は急いで口を閉じた。
「鍵はどこにある」
「ど、どこの?」
訊き返すと戸田は悪鬼のような形相になった。
「言わない気か!」
戸田の口からもう一匹、蛭が落ちた。
「ま、待ってくれ!」
智明は震える指で文机の横に置いてあるバッグパックを指さした。
さっと女の身体は離れ、バッグのところへ移動する。
動けない身体で、首だけを回し智明は目で追った。そのまま出ていこうとするので、急いで「動けるようにしてくれ」と頼む。背中はなにも応えなかった。
「戸田さんー」
腹の上の黒い蛭は進む方向を決めかねるかのように頭を振り立てる。一匹が顔へ向かうのを再開すると同時にもう一匹は下腹へ向かう。パジャマの中へ潜り込んでいくのが智明に見えた。くねくねとうねったかと思うと、きゅっと丸まって収縮する。そしてまたねっとりと伸びる。また球形に縮まる。着実に前へと進んでいく……。
痺れた舌で必死に叫ぶ。
「だ、だれか……助けてくれーっ、正直さ
ーんっ、いやだーっ」
「だからなんで俺の名前を呼ばないんだよ」
涙に滲んだ眼で見上げると、蛍光灯の笠に小さな蝙蝠がぶら下がっている。
「ぐ……が、がくと」
蝙蝠は小さな翼をひょいと振る。
「イオラ!」
次の瞬間「ふにゃあっ」という鳴き声とともに黒猫が窓の外から飛び込んできた。智明の腹でのたくっている蛭をくわえ、ぱっとジャンプする。力強い後脚キックが智明の顔を直撃した。
猫の姿のイオラはくわえていた蛭を離すと背中の毛を逆立て、再び智明に襲いかかる。正確には智明にではないのだが、自分の下半身に飛びつかれたので思わず「わっ」と叫んでしまった。
「キーッ」
甲高い声を上げたのはイオラに噛み付かれた黒蛭である。イオラはくわえたまま首をぶんと振って智明から蛭を引き剥がす。自分のあそこも思いっきり引っ張られたので、智明はまた「痛いっ」と叫んだ。周りにいた淫夢魔たちもよたよたと逃げ始めた。
蝙蝠はふわりと笠から離れると、岳斗の姿になって枕元に着地した。
「よかったな、助かって。もうちょっとでミイラになるところだったぞ。あの蛭はアノマロビルっていって、内臓に卵を産むんだ。卵からかえった幼虫は内臓を食い荒らすんだぜ」
「ひーっ」
にやにやと見下ろす岳斗を智明は涙眼で睨む。
「もっと早く来てくれよ!」
「それが恩人に対して言う言葉かよ」
笑いながら岳斗はひざまずくと、智明のパジャマを元通りにする。
ようやく智明は身体が動かせるようになった。
「出て行ったのかと思ったよ、店にいないんだもの」
「まあな。そうしようかと思ったんだけどさ、悪魔にも責任てもんがあるからな、あんたからは離れないぜ」
「責任……君の口から出るとは思えない言葉だよ!」
「そう言うなよ、ちゃんと来てやったろ?」
「じゃあ、今までどこへ行ってたんだよ!」
まだ機嫌の直らない智明に、「俺だっていろいろ調べてたんだぞ?」と口を尖らせた。
「お前が刺青博物館に来てたとき、俺もあそこにいたんだぜ? 標本の奴らから聞き取り調査してたんだ、あの戸田に憑いた悪霊が何を狙ってるのか調べようと思ってな。いわゆる地取りってやつだ」
思い出してちっと舌打ちする。
「正直(まさなお)が一緒だったから、俺は変身できなくなっちゃって、あんたらがいなくなるまで陰で隠れてたんだ」
「そうだったのか……それで入ったとき、なんだかたくさんの話し声がしてたんだね」
はあー、と溜息をついて智明はパジャマのボタンを嵌めた。
岳斗は智明の正面に腰を落とすと胡座をかく。にやり、と唇を舐めた。
「しかしさっきのは見ものだったなー。ちょっと俺のサド心をくすぐったぜ? 地獄で拷問担当してたときのことを思い出してほのぼのしちまったな」
「それで助けるのが遅れたのか!」
「ま、そんなこともないでもないけどな」
ちょっと湧いた感謝の心は泡と消え、智明は眦を吊り上げた。
「僕は君を助けた恩人だろ? ほのぼのしてる間に助けろって! これじゃ減点対象だよ!」
うう、と岳斗は渋面を作る。
「ちっ、そう言われるとなー。けど、ちゃんと救ったんだからいいじゃないか」
危機一髪の場面を思い出し、智明は岳斗の肩を小突いた。
「てゆーか、こうなったのは君のせいで、君がいなけりゃそもそも危険になんて遭わなかったんだぞ!」
「そうとも言えるかな」
「だいたいさっきだって、戸田さんが来た時点で助けるべきだったろ!」
岳斗はTシャツの皺を伸ばす。
「そんなことをしたら真相究明ができないじゃないか。あんたを襲ってる霊の念を探ってたんだよ。ばっちりわかったぜ」
その言葉に智明は少し機嫌を直し、岳斗を見上げた。
さんざんな目に遭ったが、それでも謎を解く役に立ったと思えば……。
岳斗はへっへっと得意そうに顎を突き出した。
「いいか、あの女はな、亭主を殺して遺体をバラバラにした奴の霊らしい」
うえっとなったが、智明は先を促す。
「昭和の初期にな、この辺りであったんだよ。亭主を殺し、女が自分の母親と一緒になって遺体をバラバラにしていろんなところに捨てたんだ」
だが最初に見つかったのが首だったため、比較的早く事件は解決した。亭主の酒乱と乱暴に耐えかね、ついに犯行に及んだという哀れな動機だった。
「女は母親と下宿屋をやってたんだ。で、押し入れに隠して下宿人が寝静まった夜になるとのこぎりでこう、な、手足を……それで一つずつこっそりと捨てに……」
岳斗は嬉しそうに真似をしてみせる。
「うーん……」
迫真の演技にさすが悪魔だと智明は思った。
「結構帝都を騒がす事件だったらしいぜ?」
事件のあったのは満州国建国宣言が出された年だった。日本全体が戦争へと雪崩れ込んでいく暗い世相の中で、その猟奇的な事件は破滅を予感する人々の魂を揺さぶったに違いなかった。
「それで……その女の人は死刑になったのかい?」
いいや、と岳斗は首を振る。
「禁固刑だったらしいが、獄中で病死したんだ。亭主のほうは極悪な奴だったから自業自得だしあっというまに地獄堕ちしたけど、女のほうは未練でこの世に留まったんだろうな。ま、男運が悪かったよな」
岳斗は少し同情的なコメントをする。
「戸田さんに乗り移ったのもわかるような気も……」
だからといって放っては置けない。それに、
「だったらなんでまた殺人なんかしたんだろう?」
智明は疑問を口にする。
「殺したのが最低男ってのは共通するけど……この世に蘇って、悪い男を懲らしめようっていうんじゃ……」
思いついてぞっとする。冗談じゃない、これからも殺人を犯すような霊が下宿してるなんてことが世間に知れたら。
「弓町ハウスは閉鎖だよー」
どころか、最低な男を殺していたら、いくら殺しても殺し足りないだろうし……。
「日本の人口がかなり減っちゃうんじゃないの?」
「ま、正体がわかったから、俺が地獄へ堕としてやるよ。俺の力を信じろって」
岳斗は胸を張ると智明の肩を叩く。
悪魔に信じろと言われても、と智明は溜め息をついた。
だが戸田に変なものが乗り移っているのは事実だ。そして生首が部屋に隠されているのも、取り憑いた霊が何かを企んでいるのも。
この薄情な悪魔の力を借りねば、「弓町ハウス」の危機どころか本郷界隈が大騒ぎになることも。
決心すると智明は傍に置いてあった自分の服へと手を伸ばした。
「戸田さんの部屋へ行ってみよう!」
ぎしぎしと軋む階段を踏んで二階へと行くと、廊下は真っ暗だ。
どの部屋も静まり返って我が家ながら智明は少し背中が寒くなった。
戸田以外の下宿人は皆男なのだ。乗り移っている霊も戸田も男を憎んでいる……。
「も、もしかして戸田さんが下宿してる人をホロコーストしちゃったなんてこと、ないだろうね……」
岳斗の背中から恐る恐る尋ねる。
弓町ハウスが「虐殺の館」などとワイドショーで紹介されている図が眼に浮かんだ。
「まさか。ほら、鼾が聞えるじゃないか」
岳斗の指摘に従い、智明は一番近くの扉に耳を近づけた。微かに聞える規則正しいノイズにちょっとほっとする。
その間に岳斗は戸田の部屋の前に到達していた。
「おい、鍵が掛かっていないぞ」
「えっ?」
智明は一応「戸田さん? 失礼します」と礼儀正しく声をかけ、ノブを回す。
「悪霊に取り憑かれているとはいえ、独身女性だからね」
「しかも正真正銘の処女だしな」と岳斗が嬉しそうに付け加える。
明りをつけると部屋には誰もいない。
この前入ったときと少しの違いもない。
と思った瞬間、智明の目は押し入れに釘付けになった。
「おい」
岳斗も気づき、押し入れの前へと行く。
あの時押し入れから漏れていた煙のようなものは今は見えない。岳斗は襖を開け、頭を突っ込んだ。
「生首がなくなってる」
「ええっ」
智明も半身を押し入れに突っ込み、それが事実と確認する。
「どうしたんだろう……」
口に出した瞬間、あっと岳斗の腕を掴ん
だ。
「そう言えば戸田さん、僕のバックから鍵を持っていったんだ! あそこの鍵を!」
「となると行き先は羽山邸だな、急ごう!」